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原発回帰への道 まやかしは許されない

2015年5月15日付 中外日報(社説)

原子力発電所は、英語では一般的にnuclear power plantと書く。原子力はatomic power、原子爆弾はatomic bombだが、水爆などが現れたため「核」を総称してnuclearにしたようだ。だから英語を素直に訳し、原発は「核発電所」「核発」と呼ぼうと作家の村上春樹さんが提唱している。

原子力の平和利用は1953年のアイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース」演説から始まるが、そもそも核技術に平和と軍事の区別などなかった。だから今もイランの核開発で国際対立が沸騰する。もしnuclearを「核」と訳せば、原発はおっかなく思われ、例えば福島県双葉町の有名な標語「原子力明るい未来のエネルギー」も考えつかなかっただろう。「原子力」という言葉には、ある種のまやかしが潜んでいる。こうした恣意的で、時に珍妙な言い換え言葉が、福島第1原発の事故後、メディアから多く流されたことは記憶に新しい。

事故を事象といい、汚染水は滞留水、原発老朽化は高経年化、核燃料の溶融は損傷、等々だ。事故を過小評価する意図が露骨だが、現在進む除染も、実態は汚染物質を移すだけの移染にすぎない。

地方を犠牲に供し、事故で十万単位の人々の故郷を奪い、命も脅かす原発は社会正義と倫理に反する。もう一つ気になるのは、核廃絶を訴える全国300余の自治体参加の日本非核宣言自治体協議会への加入率が、一部の原発立地県で低いことだ。原発銀座・福井県はゼロである(同協議会HP)。原発と非核運動の関心度に相関関係があるとは思いたくないが……。

原発再稼働に前のめりの安倍政権が主張する「新規制基準は世界一厳しい」も、根拠不明で言葉だけが独り歩きしている感がある。運転差し止め訴訟で基準の安全性をめぐり裁判所の判断も割れているのに、政府は15年後の原発比率を「20~22%」程度にする方針を決めた。原発新増設もあり得る数字という。

日本は地球の陸地面積の0・25%だが、世界のM6以上の地震の2割強が集中する。強い地震がないドイツが「倫理重視」で脱原発に転じたのと対照的だ。先般来日したメルケル首相が「原発には本当に予測不能なリスクがある」と語ったのが印象に残る。

政治家や専門家に信頼を置けない。結局、問題の核心はそこに行きつく。生活や命に直結する課題で政治が語る言葉のまやかしに鈍感なら、必ず道を誤る。もとよりそれは原発に限ることではない。