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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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宗教者の介入を 元少年Aの手記から

2015年7月15日付 中外日報(社説)

「Aの事件は賽を10回投げ、全て同じ目が出たように悪条件が重なった稀なケース。だが一度でも違う目が出ていたら違う結果になっていたかもしれない。そう信じて向き合うしかない」。1997年の神戸連続児童殺傷事件の後、更生教育関係者がこう述べた。

その「元少年A」の手記『絶歌』が論議を呼んでいる。被害者を実名で記述しながら自らは匿名のまま、遺族の心情を踏みにじり、二次被害を与えたのは大問題だ。一方で「表現の自由」も論じられるが、事件とその関連事象の取材に深く関わった立場から「内容」を読み込んだ。

生い立ちや事件前後を書いた第1部では残虐な情景も詳述される。記憶が写真のように鮮明に残る「直観像素質」による20年も前の出来事の克明な描写。しかも明らかに特定の作家の文体やアニメなどからの影響がうかがえる饒舌な「文学的」表現は、詰まるところ自らの胸中の苦悶を吐き出したもので、吐瀉物のように醜悪視する人も当然いるだろう。

医療少年院から社会復帰の経過についての第2部は、悔悟と共に、「人は多くの他人の助けと縁に支えられて生きている」と訴えているようにも読める。ただ、そのような「縁」は、何も彼に教えてもらわねばならないことはない。

同書に価値がないとする指摘もあるが、確かに読んでみても少年が残酷な事件を犯した「理由」は分からない。だが、そもそもこのように人を殺害する「理由」など最初から存在しない。しかし事件の背景、Aの行動の「原因」はかなり具体的にうかがえ、それは「教訓」でもある。例えば、性衝動と暴力が結び付いた過程。そして、宗教に関係する要素もある。

Aの心が歪む引き金となった、最愛の祖母の死、その位牌、仏壇、そして鑑別所で母から差し入れられた数珠、仏像。だがそこには仏教の「表象」はあっても仏教者の声、姿はない。「死」に異様な興味を抱き、暴力へと突き進む少年を諭し、訴える者はいなかったのか。オウム真理教事件で信者が「寺は風景でしかなかった」と述べたのと同様に、本を読む限りでは、底なしの心の闇に仏教者が介入した形跡はない。

曝け出された異常な「賽の目」を分析し、教訓への対処を世に示す。Aが最後に気付いた「いのちの重さ」を説く。それが出版の是非論への一つの答えだろう。教育者、心理学者らが試みている。宗教者の出番はある。「嘆かわしい」などと当然の感想、軽い言葉を発するだけなら、いのちの専門家としての態度ではないだろう。