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五輪エンブレム撤回 この際、開催の見直しを

2015年9月9日付 中外日報(社説)

「過ちては改むるに憚ることなかれ」。英訳だとIt's never too late to mendとなるこの儒教の教えは、国を超えた社会の規範といえるだろう。それにしても遅過ぎる――東京五輪エンブレムの白紙撤回では、多くの人がそう感じたようだ。国際的な信用失墜。公募から印刷物など相当な経費が既に費やされ、その一部は税金だとなればなお苦々しい、と。

当初から「疑惑」にまみれ、「国民の祝福」が極めて怪しくなるに至ってから取り消すのは新国立競技場も同じ。どちらも「権威」にすがり付いて、いったん決めたら周囲の批判に耳を貸さず、結果には誰も責任を取らない。まさにこの国の官僚機構の体質を物語る。撤回は、同様に反対が多いにもかかわらず安保法制や原発再稼働を強引に進める安倍政権が、国民の非難をこちらに向けてかわす狙いもあったのではとの見方が根強い。

もともと東京五輪は、この時期の開催自体に疑問を呈する意見も多かった。東日本大震災の被災地では、政府による出資の先細りで復興はなかなか進まず、原発事故被害者の生活は破壊されたまま。耐用年数の2年をとうに超えた仮設住宅であえぐ高齢者の家族は「オリンピックなんて遠い事」とこぼしていた。ますます深刻化する格差社会、子供の貧困の拡大を見ても、「祝福」など程遠い。

エンブレム撤回では、「1964年の東京五輪のものを使えばいいのに、なぜ作り直すのか」と識者が新聞で指摘していた。見直してなお巨費が投じられる競技場もそうだ。「全国民が祝福」するよりも、アスリートたちが夢を追うよりも、口を開けば「経済効果」を言う人たち、ゼネコンや関連業界ばかりが歓迎するのでは、オリンピック精神とは無縁ではないか。

キリスト教で、「悔い改め」の意味に使われるギリシャ語の「メタノイア」は、本来は「考え、見方を改める」という意味。社会の諸問題に対する姿勢を見直す、という趣旨をくみ取るキリスト者も多い。この際、五輪開催を根本的に見直してはどうか。

中止や延期はしないまでも、規模を縮小する、あるいは首都圏一極集中のあおりで疲弊が激しい地方に徹底的に分散開催する。また、スポンサーからの膨大な出資を基金として、被災地の復興促進や低下するばかりの福祉施策の質向上に充てることも考えられる。まだ懲りずに多額の費用をかけてエンブレムを再公募、再制作するなら、開催の在り方自体について国民から案を募ってもいいだろう。それこそ近代五輪の歴史上、画期的な大会になるのに間違いない。