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侵略戦争と国民 民族主義的熱狂をどうみるか

2015年10月30日付 中外日報(社説)

戦後70年、改めて日本の侵略戦争に関する反省が各所で行われている。満州事変以来の軍部の独走が最も批判されるが、「開国」以来の欧米化がそもそも当時の帝国主義的資本主義の体質を受け継いだという説もある。ただ、いずれにせよ侵略戦争が広い範囲の国民的熱狂に支えられていた事実は忘却してはならない。

日本だけのことではない。18世紀以降の西欧では、「悟性」(最近あまり使われない言葉だが、要するに日常生活を律する知性)が重視された時代の後、感情や英雄神話や民族の歴史というような「非合理」なものに目が向けられ、民族主義と結び付いて市民からも支持された。いわゆる19世紀のロマン主義だが、抑圧されていた「本能的生」の再発見でもあるだろう。

本能といっても人間の場合はむろん動物的本能と同じものではない。しかし人間が文化世界の中で制圧したはずの自己保存と種族保存と闘争の本能の残滓がなお存在するのは間違いない。近代化に後れをとった国家では、それが危機感、劣等感と結合して民族主義・国家主義を支えた。ナチス・ドイツや日本の国家主義とこれを支えた民族主義的熱狂にはそうした性格が濃厚だ。悟性がコントロールできない力が今も世界各地で紛争の原因となっていることは改めて言うまでもあるまい。

文化生活の中では、本能は変貌する。多くは情熱の形態をとる「生」の表現で、保身、所属する集団への忠誠心やエロス、困難を克服する努力、競争やスポーツへの情熱など様々だが、これらも不合理な方向へ転化しやすい。例えば勝利の歓びが祝祭という形をとるときにも、非日常的な「生」の過剰な表現がしばしば見られる。

宗教の場合はどうか。求道や布教の努力、失敗にめげない平和と社会福祉への情熱的献身などは「生」の深い根源につながる部分に動機がある。聖者の振る舞いはまさにそれだろう。これらは現代では稀になったとはいえ、消失したわけではない。要するに根源的な生の本能は、宗教の営為の中で浄化され、昇華するのである。

かつてフロイトはリビドー(性エネルギー)が昇華されて文化的創造を支えると言った。だが本能的なるものをリビドーに限るのは狭過ぎる。日常性の底に本能的な生がある。しかし「ダンマ(法)」とか「聖霊のはたらき」などと言われる宗教性はさらに深い。実はそれは「生」を抑圧・変貌させずに浄化するものなのだが、そのことを現代の宗教者は説得力をもって説く必要がある。