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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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援助を受ける立場 思いやりにも想像力が必要

2015年11月20日付 中外日報(社説)

震災仮設住宅で支援活動をした時、被災者から「お礼にどうぞ」と、配給の缶飲料や菓子をもらって恐縮したと、あるボランティアが述懐していた。自分はお礼をもらうために支援に行ったのではないのに、「なぜ?」というわけだ。でも被災者の側からすれば、ただ助けてもらうばかりでは申し訳ない、せめて何かお返しをしなければ、という気持ちがそのような形で表れたのである。

援助を受ける側の思いは様々だ。人情として、他人に迷惑を掛けたくないから、助けを求めるのがつい遠慮がちになってしまうケースもあるだろう。そればかりでない。困ったときに世話になるのはお互いさま、というようにはなかなかならない非対称的な人間関係の場面も決して少なくはない。

生活自立を目指すある障害者は、自分が活動を進める理由として、毎回ボランティアに介助を依頼していては、その都度相手にお礼を言わないといけないし、善意の相手にはクレームを伝えにくいという点を挙げている。それよりはむしろ、介助なら介助を責任ある仕事としてしっかりとやってもらい、こちらはその対価を賃金で払うような在り方がよい。何よりもこの方が、人間として援助者と対等の関係に立つことができるのである、と。

ここには、援助を一方的に受けることを潔しとしないプライドもあると思う。支援者側も、ともすると上から目線になって、つい相手に恩恵を施しているような感覚に陥らないよう、重々気を付ける必要があろう。さもないと、支援される側も敏感に気が付いて、そのような恩恵を耐え難く思うことになる。人間は、ただ助けられるばかりでは心の負担は大きい。当事者主権が叫ばれる時代、「私助ける人、あなた助けられる人」では、援助者と被援助者の間には、いつまでも対等な人間関係は構築できないだろう。

こうした事柄は、宗教者が対人援助に関わる際にも、心しておくべき点であろう。ある仏教NGO団体では、ホームレスの炊き出し支援活動などの際に、支援を受ける側にも災害被災者への募金を勧めている。彼らにできる金額はわずかかもしれない。しかし、それによって自分たちが一方的に助けられるばかりでなく、少しでも他者のために貢献しているのだという誇りを持ち、そこから人生に前向きの姿勢も生まれるのだという。これも一つのアイデアだ。

対人援助には、何よりも想像力が求められる。助けられる人の気持ちを理解できる人こそ、真の助け上手なのである。