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“情弱”からの脱却 僧侶は現代の善知識に

2016年1月3日付 中外日報(社説)

言葉は世につれて変化する。情報弱者という言葉も、以前とは違った使われ方がされるようになった。90年代から00年代、インターネットが急速に普及していった時期に、情報弱者といえば、パソコンを扱えずインターネットにアクセスできないため、最新の情報に遅れてしまう人たちを指していた。

最近よく目にするのは「情弱」という言葉だ。これは情報弱者の略語である。情弱といった場合、今度は逆にインターネットの情報に振り回され、自分で情報をうまく活用できない人たちを指している。情報に対して常に受け身で、自ら主体的に物事を考え判断できないために、損をしたりだまされたりしてしまう。そうした人は、インターネットを駆使していながら、実は情報弱者なのである。

情報は必要なものだが、情報に翻弄されるのは愚かなことだ。端末から検索すればアクセスできるネット上の情報に比べ、紙媒体の書籍類の場合、まずそれらを探し出して、読み込んでいくという手間のかかる作業が必要である。そのように労力をかける中から、主体的な生き方が生まれるのである。

それができる人は強い。世間の有為転変を見通し、自らぶれることのない立場を形成することができる。司馬遼太郎があれほど多くの歴史小説を執筆し、時代や人間をぶれない目で見極めることができたのは、ひたすら活字の本や資料類を読んで、構想を練ったからだろう。大阪府東大阪市にある司馬遼太郎記念館を訪れた人は、11メートルの高さの大書架に2万冊の蔵書がびっしりと展示されているのに圧倒されるだろう。これでも、約6万冊もの蔵書の3分の1なのである。

情報は消費の対象であるが、知識は主体的な力の源だ。今日のように、目まぐるしく世の中が変化する時代にあって、大切なのは自分自身が主体的に生きるための基礎を確立させることだ。そのためには、一過性の情報を追い掛けるのではなく、自分の血となり肉となる知識を蓄えていくことが求められよう。

ぶれない生き方は宗教者、とりわけ仏教者にとっても必須の姿勢である。仏教経典はただ自らの信仰の原典であるだけでなく、広く人類のための生きた古典でもある。僧侶には仏典をしっかりと読み込み、内容を咀嚼して、人々に分かち与える役割がある。そのためには知識の上でも絶えざる精進が求められる。それができるならば、情報の大海に翻弄される現代人に対し、必ずや仏との結縁を与える善知識となり得るであろう。