ニュース画像
6メートルの高さから流れ落ちる「法水」に打たれる神輿と奉仕者
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

「ロボット」の時代 人間的な理解と自覚の後退

2016年6月17日付 中外日報(社説)

大型レジャーランドで従業員の大部分がロボットというホテルができたそうだ。確かにロボットは命令されたことを忠実、正確に遂行して文句も言わないから、便利には相違ない。いまやロボット、コンピューターには、どこまで人間の頭脳の代行が可能かということも話題になっている。

知には3種類あって、まず客観的に認識できる領域の知があり、特に数学的論理学的に処理できる情報については、コンピューターの能力は絶大である。数十年前には算盤がコンピューターに勝ったが、今では思いもよらない。

知の領域には第二に「理解」がある。単に「知っている」ということではなく、分かる、自分のこととして思い当たる、思いやる、同感・同情する、というような「知」のことである。むろんコンピューターは生き物ではないし人間のような感覚もないから、相手の様子を「観察」して、プログラムされた通りの挨拶や同情や励ましの言葉を発することはできるだろうが、これは全く儀礼的なお世辞と同じことである。

感覚というものは、感じるだけではなく、それが「自覚」されていることだから、知の第三の領域として「自覚」がある。自分がある状態にあるときにそれに気付くという知(自知)である。実は宗教的知の中心が自覚で、これは自分自身の本性に目覚めるという知、極端に言えば、自分自身にしか分からない知のことである。この知はコンピューターには本質的に無縁であって、もしコンピューターに「自覚」があったら、その内容は設計図とプログラムであろう。

近代以来、知の中心は第一の知になった。科学的な認識がその代表だが、これは認識を技術に応用して対象を操作することを可能とする。近代は、科学を応用した技術を経済システムに組み込み、文明の大発展をもたらし、他方では大量破壊兵器の製造も可能とした。結果として現代では知といえばコンピューターで処理可能な領域の知のこととなり、それ以外の理解、自覚という知の領域は甚だしく貧困化している。

現代の知を「自我の」知性と言い換えれば、現代は欲望的自我の知性の時代で、自我より深い生とその根本にある宗教性はほとんど顧みられていない。文明と区別された文化とは、倫理、文学・芸術、宗教のような、人間性の理解と自覚、その表現に関わるもので、ロボットには代行できないが、ロボットが人間化するというより、人間がロボット化してゆくのが趨勢というべきだろうか。