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施設襲撃事件で 一人ひとりの命の重さ

2016年7月29日付 中外日報(社説)

神奈川県相模原市の障害者施設で、元職員の26歳の男が入所者らを襲撃して19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた事件はあまりに痛ましい。犠牲者の多さだけではない。匿名で報道されているとはいえ、それぞれに貴い人生があり、それが無残に奪われたことこそが最も大きな問題で、安易に一般化して語るべきではない。だが一方で、全国の障害者・家族団体が「一人ひとりの命の重さに思いを馳せて」と声明を出したように、誰もが「いのち」の意義を改めて考えることとなった。

それは逮捕された容疑者が例えば「障害者なんていなくなればいい」と供述したとされることにもよる。命を役に立つものとそうでないものとに分け、後者を排除する。高齢者や障害者を抹殺したナチスばりの優生思想、というほど今回のケースが確信的なのかどうかは捜査を待たねば分からない。しかし、このような「命の選別、価値判断」はこの社会の様々な場面で行われているのではないか。

胎児のダウン症など特定の障害の有無を高い確率で判定できるとする新型出生前診断が導入されて3年。約3万人の妊婦が受診し、「異常あり」の診断が確定した417人のうち94%に当たる394人が人工中絶をした、とのデータが公表された。終末期医療でも、延命措置をするかどうかという選択・自己決定において、「ただ生きているだけでは価値がない」という個人的な判断を「尊厳」と言い換えて普遍化しようとする傾向は根強い。しかも超高齢化を背景に医療経済の観点から延命中止を論ずる向きさえあり、これは「費用対効果」で命を判断することではないか。

事件の容疑者は「意思疎通できない人を刺した」とも話しているという。疎通ができないのは自分の側にも原因があるにもかかわらず、相手を「訳の分からないもの」扱いする。だがこの姿勢は、世間で共通の理解を得られない人たち、経済的利害が対立する人たちに対し、協議や対話を放棄して攻撃をしたり、「壁」を築いたりするのにも共通するところがある。

この容疑者が単なる「モンスター」ではなく現代社会の縮図だとすれば、「嘆かわしい」「掛け替えのない命を」という論議だけでは解決はない。容疑者がこの施設で働いていた際の状況が犯行に関係するとの見方もある。相次いだ老人ホームでの虐待殺害事件もそうだが、「手に負えない」と思えるような命にこそ向き合い、それを尊重することこそが重要だ。苦に満ちた「命の現場」に立つ宗教者はそれを知っているはずだ。