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「心打たれる」1% 話術磨くより信心涵養を

2017年2月17日付 中外日報(社説)

本紙2月3日・8日付でも既報の通り、浄土真宗本願寺派伝灯奉告法要のインタビュー調査で、法話に心を打たれた人の割合がわずか1%だったという結果に、宗内で波紋が広がっている。「(内容が)わかりづらい。難しい」という意見が多かったそうだが、この法話はベテラン布教使が担当し、内容に遜色があるわけでなく、また聞く側も普段から法話を聴聞している篤信者が多い。そのため、関係者の誰もがこの数字に驚きを隠せないでいる。

本願寺派では今後、種々の角度から検討し、改善策を出していくことになるだろう。ただ、話す側もベテラン、聞く側も篤信者ということであれば、双方に関わる構造的な問題が伏在しているようにも思われる。

柳宗悦は『柳宗悦妙好人論集』(岩波文庫)で、真宗の法話や説教では話す個人の力量もさることながら、大切なのはどこまでも教えそのものを正しく説くことであると述べている。真宗にあっては、必ずしも偉大な説教者は必要としない。信者もまた、語られる真理を聞くために参拝するのであって、語る人間を見定めに行くのではない。そうした信心のありようを示す格好の例が妙好人の姿だ。

院主が不在の際など、寺の小僧さんが教本を読みつつ語るのを「読み法談」という。これは一般に好ましくないとされ、時に嫌われたりする。ところが、石見の国に住む妙好人の善太は違っていた。彼は小僧の「読み法談」であっても欠かさず聞きに来る。「いつも変わらない法談をこそ聞かせてもらいに参るのだ」と。

柳は、このような善太の法話の受け取り方に感嘆する。それは、繰り返し語られる法話を、受け取る側が絶えず新たな思いで受け取っているからである。また真理は、誰が説いても同じ真理である。それほどまでに信心は生活化されているのである。

今回の「心打たれる」1%の原因の一端には、法要の前に法話が行われ、時間も通常(30~40分)より短い7分だったため、聞く側に法悦的な気分が高まらなかったことがあったのかもしれない。それにしても、そうした気分は即席に出てくるのではなく、信者自らの内で日頃から宗教的情緒として養われていることが前提となる。

僧侶や布教使が話術の腕を磨くのも大事であろう。しかし、もっと大事なのは、石見の善太のような信心を持つ信者を育成していくことではないだろうか。また信者の側も、日々の生活の中で自らの信心を涵養することが大切なのは言うまでもない。