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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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映画「沈黙」から 内なる信仰と対外表出

2017年3月10日付 中外日報(社説)

遠藤周作原作によるM・スコセッシ監督の映画「サイレンス―沈黙」が宗教者の論議を呼んでいる。江戸時代のキリシタン弾圧でのポルトガル人神父と長崎の信徒たちの苦難を題材に描かれる主要テーマは、抑圧の中で信仰を貫き通すことの意義とその様態だ。だがその個人の内面の問題をおいてもこの映画は、キリスト教が異教の地でどのような対応をしたのかという例を通して、宗教と地域社会文化との関係、協調あるいは緊張関係の問題を提示している。

拷問・磔刑という暴虐の前に主人公ロドリゴ神父は、殉教信徒たちが踏み絵を拒否するのを歓迎したり、逆に棄教を訴えたり激しく揺れ動く。ひたすら神の救いの声を聞こうとするその姿は崇高だが痛々しい。他方、信徒キチジローは助かるためにユダのように何度も裏切るが、人間くさくもある。

暴力による弾圧は論外だが、踏み絵を迫る藩の役人が「形だけじゃ。心の内までは問わぬ」と言い、神父に対し「あなた方はこの国を知ろうとせず、押し付けるだけだ」「キリスト教も日本の仏教も人を救うということでは同じだ。こだわることはない」と棄教を説く場面で妙に納得できるのはなぜか。それは現代の私たちが、異なる宗教間の協調や対話の動きを体験しているからであり、例えばカトリック教会も第2バチカン公会議で非キリスト教圏での地域文化に配慮した布教の路線を打ち出したことを知っているからだ。

あくまで16世紀を描いた本映画での話だが、神父は結局、自ら信じるキリスト教的正義、西欧的価値観から踏み出さず、日本の文化、地域性を顧みることなく“形”を貫き通したように見える。対するキチジローが終始一貫、自らの生命を守るために信仰の外形を融通無碍に変えたのは対照的だ。

提示された問題は信仰の内と外ということに帰着する。沈黙の中に神の声を聞く、そのように内なる信仰が強固ならば、他者や社会あるいは国家などの「外」への対応においても、それは形は様々でも筋の通った強固なものになるだろう。「外」との協調も、そして場合によっては対決、でもだ。

歴史の中で宗教は抑圧に加担もしてきた。西欧による十字軍、日本での戦争協力、神の名における中東戦争。翻って、そのような人々を圧殺する大きな動きに立ち向かう際にも、人間としての宗教者の内なる信仰が問われる。第2次大戦中、ナチスの圧政に抗しドイツの牧師ボンヘッファーが「ヒトラーの意志よりも神の意志」、そして「キリストに律せられた良心」を根拠に反撃したように。