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教育勅語の本質 自由な批判精神封じる教え

2017年3月24日付 中外日報(社説)

1890年に明治天皇の名において布告された教育勅語は戦後、1948年に衆院で排除決議、参院で失効確認がなされたが、最近、一部で教育勅語のどこが悪い、という声が聞かれる。

若い人は一読したこともあるまいが、はじめの部分は、「天皇の臣民」である国民は忠孝を基本として優れた国体を築いてきたのであり、教育はこの伝統に基礎づけられるとする。中心部分は天皇が「爾臣民」にその内容を教えるもので、「父母には孝、兄弟には友、夫婦には和」という家族道徳、慎み深く学業に専心して知性と道徳性を成就せよとする。個人道徳、公益を広め世の事業を開発せよと社会道徳を教える。

「五箇条の御誓文」には「旧来の陋習を破り」、「広く会議を興し万機公論に決すべし」とある。だが、教育勅語には民主主義はもちろん自由、平等、人格の尊厳に基づく人権への言及はない。各人には与えられた能力を最大限に発揮することが許され、社会はそれを助けるべきだという個人道徳的観点は、中心部分の国民道徳の強調に覆われる。天皇の臣民は憲法と国法を守り、国の危機に際しては一身を捧げて「天壌無窮の皇運」を守れという。この部分は日本書紀にみえる天照大神の神勅「日本国は私の子孫が支配すべき国である。その皇位は天地とともに永遠であろう」を踏まえる。

ここには国際関係と人類の将来への展望はみられない。結びの部分は、以上は天皇家代々の遺訓であって、古今東西に妥当するもの、天皇とその臣民が共に順守すべきところであるという。教育勅語の内容には優れたところがあるといっても、元来倫理は人類普遍の良識であり、人間性の尊重に基づく自律であって、権威ある支配者の教えに従うことではない。教育も単に伝統的社会に人材を補給することではなく、人間性の円満な自覚を目指すものである。

教育勅語の問題性は、内容が現代にそぐわないだけでなく、神聖な権威が臣民に守るべきことを教え命じるという他律的な形式にもある。ここには自由な批判精神や伝統を超える創造性を発揮する余地がない。

しかし考えてみると、「臣民」から「市民」に変貌したはずの日本人は、伝統と権威にすがる傾向から脱却しきっていないのではないか。かつては中国に、近代以降は欧米に追随して、自由な創造性を発揮することも、それを認め合って発展させることも、いまだに十分になされていない。その心性が伝統的権威への復帰を求めさせるのであろうか。