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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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被爆翌年春の発心 母に会いたいと僧侶に

2017年4月7日付 中外日報(社説)

広島被爆の翌年、1946(昭和21)年春だった。原爆孤児を収容する広島戦災児育成所の庭で、夕空に向かって「お母さーん」と呼び掛ける少年がいた。小学5年生になったばかりの増田修三君で、母と妹を失っていた。

広島戦災児育成所は、広島県呉市出身で浄土真宗の僧籍を持つ山下義信氏が、被爆の年の12月、禎子夫人と協力し、私財を投じて同県五日市町皆賀(現広島市佐伯区)の県有施設跡に開設した。身寄りのない子ども八十余人を収容して、実子と共に分け隔てなく育てた。

「広島には他の戦災都市のような“浮浪児”のグループがいない」と評価された。

「お母さーん」と叫んだ増田君は山下氏から「お坊さんになったら母親に会える」と諭され、その年11月、他の4少年と共に西本願寺で得度式を挙げた。やがて龍谷大に進学した。

山下氏は育成所の中に童心寺という一宇を建て、子どもたちと共に日夜、礼拝を続けた。増田君はその雰囲気の中で発心した。

山下氏の育成事業に何くれとなく支援を惜しまなかった仲間に、同県下蒲刈町(現呉市)の本願寺派・弘願寺の永野鎮雄住職がいた。宗会議員や本山宗務所の役職を歴任、本山でアルバイトする増田君を見守った。

ある日、大谷派・東本願寺の役職者が西本願寺に永野氏を訪ねてきた。帰ろうとしたら、にわか雨。永野氏は増田君に「傘を差し掛けて、お東さんまでお送りしなさい」と命じた。

西本願寺から東本願寺まで約10分間、肩を並べた。増田君の身の上話を聞いた大谷派の役職者は、増田君の利発さにも注目し、永野氏に「私の自坊には跡継ぎがいない。あの青年を養子に迎えたい」と相談した。永野氏から伝え聞いた山下氏にも異存はない。

大谷派寺院に迎えられた増田君は、朝倉義脩という僧名を得てさらに精進、各地の同派教務所長や本山の部長職を歴任し、多くの門信徒を教化した。

山下氏は47年から12年間、広島地方区(当時)選出の社会党(現社民党)参議院議員を務めた。その間、バラックに住み続けた。一方、永野氏は山下氏の政界引退後の68年から74年にかけて、全国区(当時)選出の自民党参議院議員を務めた。政治的立場は違っても、ヒロシマに寄せる思いは同じだった。

山下夫妻も、永野氏も、増田君も、今は浄土で“倶会一処”である。広島市の童心寺跡には、増田少年が「お母さーん」と呼び掛けた春の空が広がっている。