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人工知能の限界 人間性を軽視する社会

2017年4月12日付 中外日報(社説)

人工知能が発達し、たいていのことではロボットの方が人間に勝ることが分かっている。いまや人工知能に不可能なことは何かということが真面目に問われている。

よくいわれるのは、コンピューターは同情心のような感情はない、ということだ。コンピューターは数学的に扱える情報の処理で絶大な能力を発揮するが、もともと感情はないから、憐れみの念から創造的に、つまりプログラムされていない仕方で行動することはできないというのである。

一般的には、客観的な事物に関する情報処理は人工知能の得意とするところだが、感覚や感情の場合はそうではない。これらは機械に入力することもできない。しかし例えば青は晴れた空の色であり、甘みは蜜をなめたときの味であるというように、客観的事物の経験に託して間接的に言語化することはできる。

ということは、感覚そのものの伝達ではない間接的な情報化なら人工知能にも可能だということである。例えば甘みの場合なら、砂糖という物質の化学的組成を分析認知して、それをあらかじめ入力しておいた「甘い」という言葉に変換すればよい。ロボット自身が甘みを感じる必要はない。

だからロボットでもいずれ外的には憐れみを感じているかのように振る舞うことができるようになるだろう。しかし客観的事物の経験に託して情報化することができないものがある。それは客観化できない事柄に関する感覚、感情、認識である。この場合は何について語っているのか客観的に開示できないから情報化することが極めて困難である。

仏教の中心には「悟り」といわれることがあり、これが何かはそもそも語りようがない。それは「悟り」が、当人がこころの本性を直接に了解する、つまり自覚することだからで、客観的な事物の経験や感覚ではないから、事物の経験に託して間接的に語ることはできない。できるのはせいぜい比喩か暗示である。当然ここではコンピューターも使えない。

人工知能を持つ機器が多くの事柄を人間より安価かつ有能迅速正確に遂行するようになると、逆にそれが不可能な領域が軽視されるようになる。例えば「人間性」のようなことは情報化して技術と経済のシステムに組み込むことができない。早くいえばもうけの手段にならないからである。

一般に人間性は当人の自覚によって現実化するものだが、それがなおざりにされる文明とは、いったいどういうものになるのだろうか。