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わかっちゃいるが 排他性を正当化するすり替え

2017年5月10日付 中外日報(社説)

「わかっちゃいるけどやめられない」――1960年代にハナ肇とクレージーキャッツの植木等さんが歌い大ヒットした「スーダラ節」(作詞・青島幸男、作曲・萩原哲晶)の有名なフレーズだ。

真面目な人柄の植木さんは、この歌詞を見て歌うのをやめようと思った。しかし浄土真宗の僧侶だった父が「これこそ人間の矛盾を突いた真理。親鸞聖人の教えにも通じる」と歌うように勧めたエピソードが残っている。

予想外のヒットを受けて、植木さんは「こんな歌が売れるようじゃ悲しい」と思い悩んだそうだ。しかし、「わかっちゃいるけどやめられない」人たちはいつの時代にもいる。そのような人たちの方が多いと言ってもよいかもしれない。

これを心理学では認知的不協和というそうだ。自分にとって良くないこと、不快なことが起きたときに、不快感を低減するには行動を変えるか、または認識を変えるか、どちらかが必要になる。

そして、高い枝にあるブドウを採ることができないキツネが「あのブドウは酸っぱくて食べられない」と自分を納得させたイソップ物語の「酸っぱいブドウ」の話からも分かるように、人間にとっても行動を変えるより認識を変える方が楽だとされる。

不快な事実に目をつぶり、物事を自分に都合よく解釈することでその場を収めようとした経験がある人は少なくないだろう。喫煙が体に良くないことが分かっていながら、「たばこを吸っていても肺がんにならない人もいる」などと理屈をこねて自分の喫煙を正当化しようとする愛煙家などがその典型だ。

最近の若者らは自己愛が強く、何かを言ったりしたりすることで傷つくことを恐れ、気心の知れた少数の仲間とだけ付き合い、価値観や意見が異なる人たちとは交わらないようにする排他的な傾向にあるという。「馬には乗ってみよ。人には添うてみよ」というが、彼らは「別の世界に住む人とは話しても無駄」と他人に寄り添うことを拒絶しようとする。

愛煙家の屁理屈も問題だが、認知的不協和をこのような排除の論理で解決しようとする人たちが増えつつあることはより大きな問題である。「赤の他人」と「仲間」しか存在しない世の中は「我他彼此」と軋みが生じるだけだ。

「此あるが故に彼あり」――親鸞聖人の教えもこの縁起の思想に基づく仏教の教えの一つである。植木さんが存命なら、この教えにも背き「彼」を拒む「人間の矛盾」を悲しむだろう。