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「生命尊重の日」 運動よりも寄り添いを

2017年7月19日付 中外日報(社説)

石川県加賀市が制定した「お腹の赤ちゃんを大切にする生命尊重の日」条例が論議を呼んでいる。7月13日を「生命尊重の日」とし、「胎児を一人の人として尊び社会全体が温かく迎える」ことを呼び掛けているのだが、様々な事情で苦悩の末に人工妊娠中絶を選ばざるを得ない女性に対して「問答無用」の圧力になり、「産む、産まないは国や行政ではなく個人が決める」という自己決定にタガをはめる、と反対意見がある。市議会でも疑問の声が上がり、新聞には問題点を指摘する記事が出た。

制定には宗教者も含む市民団体などの「いのちを守る」運動の後押しもあった。「生命尊重」自体は絶対的自明の理で、基本的に誰も反対はしない。だが、というより、だからこそ特定の日を指定して「運動」にするのは疑問が出るだろう。市は出生率向上や子育て支援の狙いを説明するが、「目的」条項もないわずか2条の条例が「生命尊重の日」と定めたのは「母体保護法」公布日でもある。

同法の前身、優生保護法下では数々の問題が起きた。「優良な子孫」の保護という優生思想で、戦後ハンセン病が対象に加えられ、療養所に隔離された「患者」の断種手術が合法的に強制された。怖い伝染病という誤った偏見で戦前に各県で患者の収容を進めた「無癩県運動」の流れだが、差別は今も消えない。1960年代にはダウン症などの障害児を念頭に「不幸な子供の生まれない県民運動」が西日本で推進され、出生前診断が奨励された。いずれも「運動」が間違った圧力になった悪例だ。

半面、いのちに関する事柄を全て個人の「自己決定」に委ねていいのかという問題もある。出生前診断の結果で障害児を排除するようなケースでは、障害への偏見はないのか。何らかの利己的な欲望や経済効率の考え方が生殖医療を野放図に拡大させているかのような現実に対しては、宗教者は優生思想とは対極のもっと重い価値を示さねばならない。だからと言って、結果として中絶を選び、自らの胎内に宿った生命を消滅させる苦悩によって心身共にボロボロになる「罰」を受けた女性を、単に「嘆かわしい」と突き放すのでは責任放棄だろう。

「分かりやすい」運動よりも、いのちの尊厳と個別の事情とを深く洞察し、現場で苦しむ人に寄り添うのが宗教者の役目だ。そして役に立つかどうかで人間の価値を決める社会から、障害があっても生き生きと暮らせる社会、子供を持つ親を悲しい選択に追い込むことのない社会に変える道筋を示すことこそが大事だ。