東京本社勤務の営業記者を募集
ニュース画像
倒壊した浄土真宗本願寺派法城寺の鐘突き堂(むかわ町)
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

「自由」の意味 宗教が救いうる「虚しさ」

2017年9月1日付 中外日報(社説)

戦後、日本国民は敗戦によって、思いがけず軍国主義的全体主義から解放されて自由の身となった。しかし「自由」には二面がある。

第一は実存主義的な自由で、「汝自身たれ」という標語に表現されている通り、他者に追従せず、「自分自身に由る」面である。高度成長期とほぼ重なる時期、「自分探し」ということがよく唱えられた。

しかし仏教者にはよく分かっていることだが、自分を探して尋ね当てるのは、実は容易なことではない。一般論だが、人は「何事でも自分で決め、自分で選んで行え」という状況に置かれると、何をしてよいか分からず、結局は皆がしていることを行うようになる。

つまり「自由」は、元来求められたこととは反対の方向に赴くことになる。その行き着く先は安全第一の保身である。

むろん自由には別の側面がある。それは自由競争という語に示される。自由主義社会とは生き残りを懸けた自由競争の社会である。ここでは他者は全てライバルだ。自己責任を負わされた個人には他人のことを慮る余裕はない。自分を押し出して他者を排除するほかはない。

その結果を現象的にいえば、努力の多くは失敗し、せっかく営々と作り上げたもの、一時期には一世を風靡したものでも、あっという間に過去へと押し流され、忘却されてゆく。一般の商品だけではない。思想も出版物も生活様式も同様である。「懐かしのメロディー」で過去を思い出すことはあっても、昭和の生活様式はもうドラマの中にしかない。

二つの背反する「自由」には共通点もある。無意味と孤独である。読んだだけで恥ずかしくなるような「保身」のみみっちさは、既にニーチェが「ツァラトゥストラ」その他で印象的に描き出したところだが、彼はそんな生き方に何の意味があるかというのである。しかも保身は自分だけのことだから、保身者は常に孤独である。他方、全てを押し流してゆく自由競争の場合も、競争者は常に孤独で、その営為も結局は虚しいものだったと思わざるを得ない。

戦後をつくり上げてきた人たちは年老いた。一人暮らしの人も、老人ホームで余生を送る人も、孤独で、忘却の淵に沈んだ自分たちの努力を顧みて諦めきれぬ諦めの心境に浸っている。さて、こういう状況で宗教は何を与えることができるのか。実は宗教はそこでこそ本来の役割を果たすべきなのだが。