ニュース画像
倒壊した日蓮宗妙徳寺(大阪府茨木市)の山門
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

「無分別の分別」 エゴイズムの暴走に警鐘を

2017年9月22日付 中外日報(社説)

人間には「分別」というものがある。しかし仏教は分別知だけではいけないと説いてきた。では分別知とはいかなる知性のことか。

分別知は自我の知性である。自我は自分が置かれた状況を認識し、情報を集め比較検討して取るべき行動を選ぶのだが、その際情報を処理するために用いるのが分別知である。それは時間と空間、主観と客観を分け、さらに個と普遍、一と多、自と他、部分と全体、原因と結果、手段と目的、大小、上下、強弱、損得などを分ける。分別といわれる所以である。

さらに分別知の特徴は、情報一般と同様に一意的な言語(AはAであってそれ以外の何ものでもない、という仕方で特定する言語)を用いることである。ところがこの仕方で語れるのは、実は現実の一部一面であって全体ではない。

説明すると長くなるから例を挙げれば、現代医学は専門分化していて、それぞれの分野では診断法も治療法も確立しているが、生体の全体を例えば一つの原因や目的から説明することはない。また東洋医学は生体の全体性を視野に入れるといわれるが、やはり決して病気にならず健康を保つ方法とか、不老長寿の薬とかを持っているわけではない。それは全体を統一的に説明し制御することがもともと不可能だからである。

一般に学的認識が専門的に細分化されたのも同様に説明される。こうしてみると、現代は領域別に現実を認識し、その認識を技術に応用して軍事や経済のシステムに組み込んできたのだが、その際に用いられた知性は上記の「分別知」であって、従って現代文明は全体として分別知の産物であることは明らかだ。

さらに付け加えれば、この知性は対象を認識し利用するために大変適している。換言すれば、欲望充足のために用いられ、一般にエゴイズムと結合しやすい。

仏教者、最近では特に鈴木大拙が、分別だけではいけない、知性は「無分別の分別」でなければいけないと説いた。「悟りの知恵」は特定分野での認識ではなく、自分の全体性を奥の奥で成り立たせる働きの自覚である。分別せずに「一」を把握するといってもよい。この自覚は世界の全体性に関わる働きの覚に通ずる。その知の中で「分別」がなされないと、欲望の暴走が世界を破壊するようなことになる。

しかし現代社会は軍事や経済だけではなく、教育や日常生活においても分別知のみが全盛で、しかもそれに全く気付いていない。宗教者はその誤りを指摘し、社会に向けて力説すべきである。