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宗教の社会教育 行いによる教化こそ

2017年10月6日付 中外日報(社説)

ある伝統仏教教団の外部識者を交えた懇談会で先般、宗教と教育について論議が行われた。「宗教と教育」と言う場合、学校、特に公立学校での教育という論点と、宗教者による社会教育という2通りが考えられる。前者の公立学校での宗教教育については、「政教分離」の観点から直接的な宗教教育、つまり特定の教義や信仰を教える「宗派教育」はあり得ないとされる半面、宗教の変遷やその考え方などを「歴史」や「倫理社会」で教える「宗教文化教育」は実際に行われている。

確かに、宗教の意義や世界にどんな宗教があるのかといった事情を知ることは、国際社会で生きる上でも不可欠だ。他方、それだけでは単なる「知識・教養」でしかないので、宗教が教える価値、生き方などにまで踏み込んだ「宗教情操教育」を学校ですべきだ、という論議が久しい前から行われている。

しかしこれを別の観点から見ると、宗教者あるいは宗教教団がこれを「学校ですべきだ」「してほしい」と言うのは筋違いの面もある。それは、自らによる学校生徒も含めた社会に対する教化、つまり宗教的価値を様々な形で粘り強く説いていくという宗教者本来の務めや努力をせず、学校に「代わりにやってくれ」ということにもなりかねないからだ。非行問題などで、親が「もっと学校でしつけを」と言うのにも似ている。

そこで、宗教者による社会教育が重要になる。それは狭い意味での「布教」、つまり言葉による教義の伝達ばかりを指すのではなく、広い意味での「教化」、つまり宗教が説く深い価値、人間が生きていく上で指針となる教えの根幹を、人々の立場に立って伝えることだ。いわゆる教義の専門用語ではなく相手の身近なことに引き付けてということだが、重要なのは言葉によるだけが教化ではなく、何よりも宗教者自身の行いこそが宗教教育の資源、そしてそれこそが伝えるべき宗教の根幹だといえよう。

例えば、仏教や他のどんな世界宗教も教える「利他」ということ。人の身になり親切にするということを、「何々経に『人に親切にしなさい』と書いてある」とおしゃべりすることや、「自利利他」について言葉で解説することだけが教化ではない。実際に親切な行いをすることそのものが宗教であり、そうしてこそ教えが本当に人に伝わり教育できるのだろう。「人に親切にしなさい」と説教するより、電車で老人に席を譲ったら車内にほっと温かい気分が広がる。そんな経験を誰でもお持ちだろう。