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小田川の氾濫で本堂などが3メートル以上浸水した曹洞宗源福寺(岡山県倉敷市真備町)。岡山県曹洞宗青年会の会員らが仏具や家具を搬出していた(11日)
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宗教性捨てた瞑想 「悟り」忘れた自我の道具に

2017年10月18日付 中外日報(社説)

「マインドフルネス」が流行っている。これは要するに坐禅から宗教性を取り除いた瞑想で、精神安定上効果があるという。

宗教的な生き方から宗教性を除去して一般化した例は過去にもある。セーレン・キルケゴールは市民的文化となっていた当時のキリスト教を批判して、キリスト者は単独者として自覚的に信仰へと決断し、真理の証人として苦難を負って生きるものだと主張した。市民的一般性に埋没しない自覚的な主体性を説いたわけである。

20世紀になって「単独者の主体的決断」はいわゆる実存主義の源流の一つとなり、「汝自身であれ」という合言葉を生んだ。やがて実存主義はキリスト教性を失って哲学的となり、さらに無神論的にもなって、普遍的人間性を選び取る方向と「例外者」となる方向とに分かれ、さらに一般化して生き方の指針にもなった。

戦後の日本でも「主体性」「自分を見つけよ」「自分自身となれ」「自分らしく生きよ」などとしきりにいわれたものである。しかし「自分を見つける」のは簡単なことではない。そもそも「自分とは何か」が不明なのが普通だし、それよりも「何が自分なのか」、様々なことを欲し行う自分のどれが「本当の自分」なのか、見分けるのが難しい。

「人間らしくあれ」とは誰でもいうが、およそ人間のすることは全て人間的なのだから、「人間らしい」とはいかなることか、人間の様々な可能性のうち、どれが本当に「人間らしい」のか不明であるのと同様だ。こうして実存主義は一般化するうちに薄められ、具体的内容を失い、思想的「流行」からも外れていった。

坐禅から宗教性を除去するとはどういうことなのか。禅者となる伝統的な道や、禅会に参加して規矩を守る煩わしさを避けて、気軽に赴ける瞑想の会を組織するのは一般の要求に合うかもしれないが、せっかくの宗教への道を捨ててしまうのはいかにももったいない。富士山に登って頂上を極めず、2合目あたりでちょっと良い空気を楽しんで下山するのに似てはいまいか。

本来「宗教的実存」は自我より深い生を踏まえた「自分自身」となることを求めるものなのに、世俗化されて、単なる「自我の主体性」を求める主義へと変貌した。宗教性を捨てたマインドフルネスも同様に、自我の一時的な心理的安定をもたらすだけで、「悟りを忘れた自我」の文明となり終えた現代を克服する道にならないばかりか、自我の真の安定にも達し得ないのではないか。