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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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大政翼賛の兆候 権力に左右されない信仰を

2017年10月25日付 中外日報(社説)

森友学園問題が取り沙汰されるようになって流行した言葉の一つが「忖度」だ。しかし権力者におもねる態度を一括して忖度という言葉で表現するのは、現代日本に起こっている危うい事態をかえって見損なわせるかもしれない。

行政、マスメディア、教育等でそれぞれの分野における本来の精神を曲げる人が主導権を握る社会というのは非常に危険である。昨今の出来事を重ね合わせると、大政翼賛的な現象がじわりじわり進行しているのではとの疑いを持たざるを得ない。組織運営はトップダウンとボトムアップの両方向が適切に作動するのが基本条件だろう。だがトップダウンだけが強調される事象が目立っている。

政治家におびえる官僚がいるのは、今に始まったことではない。それでも、何か一線を越えているという出来事も起こっている。例えば明らかな事実まで無かったかのように処理した官僚が、まるで論功行賞であるかのように組織の長に任命されるというのは、あまりに露骨である。

首相と親密な仲であることを売り物にして、テレビで首相の代弁のような言葉を繰り返す評論家がメディアで重用されている。もちろん、政策に関しては賛成と反対の立場が交わされて当然であるが、ジャーナリストであるなら、批判的精神は必須である。

首相や政府のスポークスマンのような発言に終始するなら、もはやジャーナリストとは呼べまい。優れた政策であっても、そこに問題がないかを見極めようとする視点を失ってはならない筈である。

教育界でもトップダウンが強過ぎる例が目立ってきている。大学では学長の権限強化が政府主導で実現してから久しいが、現実をいえば、形式的事柄を充実させるために負担が増え、多くの教員は疲弊している。学長の権限強化は、要は国の施策を容易にすることが真の狙いではないかと思える。

宗教界はこうした動向と無縁であることを願いたいが、どうであろうか。日本では憲法によって政教分離が規定されているが、それは戦前の反省が出発点にあった。良心や信仰が権力者の意向によって左右されてはならないという理念は共有されている。

だが、宗教側がまるで「虎の威を借る狐」のように、自分たちの目的の実現に政治的力を利用するようになったら、これは政教分離を宗教界の方から腐食させる行為である。その意味で、森友学園問題は思わぬ方向へ展開しているが、首相夫人との関わりにおいては、宗教界にとって他山の石とすべき要素が含まれている。