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教団改革の方向 自信教人信が組織を活性化

2017年11月3日付 中外日報(社説)

檀信徒減少や後継者難など昨今の情勢を受けて、各仏教教団の宗議会では多くの議論が行われ、宗務庁等でも種々の組織改革が試みられている。本紙でも、毎号のようにそうした動きを伝えている。

いかにして魅力ある教団にするか、伝統仏教、新宗教を問わず、どの宗教教団も頭を悩ませる。宗教教団とはいえ、人間がつくる組織である以上、そこに試行錯誤もあると思う。ただ、教団組織にこだわるあまりに、宗教としての本質を見失っては本末転倒だろう。

本来は神や仏を信じる、と言うべきところを、世間では宗教を信じると言う。宗教教団の側が「○○教に入信する」という表現を使うものだから、人々もそのように宗教を理解してしまうのではなかろうか。しかし信心や信仰は、必ずしも特定の宗教教団に入ることではない。

以前、新宗教教団の合同シンポジウムで、教団関係者が半ば自嘲気味に、もう信者の数集めのようなことはやめよう、それよりまなざしを社会に向けていこう、と発言したことがあった。こんな発言が内部から出るのも、特定の教団に所属してまで信仰をしたいとは思わない人々の存在を痛切に感じているからだろう。

教団関係者は信者と未信者という区別をしがちであるが、実のところ神仏を信じる者ならば誰もが皆、求道者のはずだ。教団組織のために神仏との間に他の人間が介在し、その結果、組織依存が助長されるばかりで、逆に肝心の神仏を見失ってしまう恐れがある。教団組織が個人の信心や信仰にとって、むしろ“必要悪”的存在であることも視野に入れることが大切だろう。だとすれば、信者を神仏へとしっかりつなげていくことのできる組織づくりをこそ、各教団は目指すべきではないだろうか。

唐代の高僧として知られる善導の言葉に「自信教人信、難中転更難」がある。自ら信じることで人を信ぜしむのは、難しい中にもさらに困難であるという意味だ。ここで言う「自信」の内には、自ら信じること、そしてそれにより文字通り自分が自信を持つことが含まれている。自ら神仏に対する宗教的信の中にあることで、信者の言動は巧まずして自信に溢れ、その自信が人々を感化して同じ宗教的信へと導いていく。

ただし、そうした「自信教人信」は個人の努力だけでは難中の難である。神仏の支えが不可欠なのは言うまでもないが、教団内の交わりもまたその一助となる。一人一人の信者が自信と力をつけていけば、どんな宗教組織もおのずと活性化していくものだ。