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情報時代の罠 自我がつくり出す欲望の闇

2017年12月6日付 中外日報(社説)

人工知能の発達が著しい。学習能力を持つようになって囲碁将棋では専門棋士に勝利した。やがて車の自動運転も実用化されるという。戦闘で無人機が敵地を攻撃することはすでになされているが、いずれはロボットが地上戦に参加するという恐ろしい話もある。

いまや、人間でなくてはできないことは何かという論議もなされている。かつて蒸気機関が発明された頃は腕力で力比べを挑んだ人もいたというが、現在ではとんでもない話だ。

しかしそれを操作するのは人間であった。ところが今では情報処理能力で人知をはるかに超える人工知能が機械に搭載されるようになったので、人間の仕事がなくなるのではというわけだ。

むろん人間でなければ、というより自分自身でなければできないことがある。早い話、いくらロボットが有能でも私の代わりに食事をしてもらうわけにはいかない。一般に私が生きる上での営みは飲食や感覚や意欲や決断を含めて、ロボットはもちろん、他人には代行させられないものだ。人工知能に代行させられるのは情報処理という「自我」の仕事である。

実はここに問題がある。現代では人間自身が情報処理に専念する自我になっているのではないか。人間は昔から、特に近代以降、知識を求めてきた。知識を「どうなっているのか、ではどうしたらよいのか」という情報と言い換えてもよい。近代人はあらゆる領域で正確な情報を求め、情報に従って「生きる」ようになった。

しかしこの意味で「生きる」とは、現代社会に適応して「生活する」ということであって、「生きる」ことそれ自体ではない。「生」が情報処理をさせるのであって逆ではない。そこを間違えると身体性が無視されて人間はもっぱら情報に頼って生活する自我になる。自我が身体から遊離して、身体を支配するようになる。

それが本当にできればいいが、身体から遊離した自我は自分がつくり出した強欲に負け、結局は欲望が人工知能を使うようになる。それは危険な道だ。リーマンショックを招いた「金融工学」がその例である。あってはならない戦争も始まれば同じ道を歩むだろう。

情報もカネも必要だが、身体はそれによって生きるのではない。宗教は身体性つまり「生」また「こころ」のさらに奥に、それらを担う尊い働きを見てきた。万事を情報に解消する現代にはそれが見えなくなっている。実は現代では宗教すら「教え」という「情報」に解消されようとしているのではないか。