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宗教が選ばれる時代 魅力の担い手は宗教者

2018年1月3日付 中外日報(社説)

宗教交流や宗教対話というと、正装をした宗教者たちが壇上に並んで祈りの儀式を行う、あるいはシンポジウムで互いの教えを語り合う、さらには僧堂や修道院の中にこもって合同で霊性を高めるというイメージがある。これらはあくまで宗教者による交流や対話であって、一般信者が行うものではない。宗教者の側ではむしろ、自らの寺院の檀信徒や教会の信者が他宗教や他宗派に関心を持つのを好まない傾向にある。

しかし、いつまでもそのような考え方でよいのだろうか。現実に宗教の布教伝道の現場では、多くの人々が様々な宗教に接している。それは在家の信徒たちにとっても同様である。付き合いの上から他宗教と掛け持ち信仰する人がいたり、時には求道心から宗教遍歴をする人がいたりする。好むと好まざるとにかかわらず、信者レベルでも他宗教や他宗派との交流や対話は現実に行われているのである。だとすれば、信者目線で教えを語れる宗教者が必要だ。

現代はもはや、伝統宗教と新宗教とが信者の“取り合い”をするような時代ではあるまい。強引な宗教の勧誘はもちろん論外であるが、諸宗教は互いに共存共栄する中で、どれだけ自らの教えの魅力をどれだけ伝えられるかが試されているのである。その意味で、宗教は信者から選ばれる時代であり、その選択は教えの担い手である宗教者によって決まるのは言をまたない。

宗教者は日々、神仏と向き合うことで教えや信仰を深めることができる。だが、一般信者にとっては必ずしもそうではない。同じ職場や学校では、宗教の話をしないことが社会人のマナーとして確立している。そんな中、友人や近所付き合いの中、あるいはボランティア活動などを通じて、他者の宗教や信仰心に触れることにより、人生の味わいや生死の深みを感じるとすれば、これはとても良い機会ではないだろうか。

特に重要なのが葬祭儀礼の場面であろう。時代がどんなに変化しても、人の世において生老病死は不変である。人間である限り、誰もがこの厳粛な人生の現実に直面している。ここに宗教心の発露があり、宗教との実存的出会いもなされるのである。

たとえ他宗教や他宗派の葬祭儀礼であっても、人々が人生を振り返り、信心に目覚めることがあれば、宗教者の側にはこれを尊重して見守るという心の余裕が求められよう。そのとき気付かせられるのが、一般信者の目線に立って教えを説くことの大切さではなかろうか。