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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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軽薄なデジタル思考 ネット上の「いのち」の重さ

2018年1月5日付 中外日報(社説)

相変わらずインターネットやデジタルのバーチャルな世界で「いのち」が軽々しく扱われている。9人を殺害した神奈川県座間市の事件は、SNSで「自死志願」した人たちが犠牲になり、発覚後は例によってネットで容疑者を讃えるような下劣な言説が飛び交う。デジタル空間に埋没することで人の生のリアルな体験が不足することがいわれるが、いのちの専門家たる宗教者はどう対応するのか。

デジタル技術では、亡くなった人の姿のデータを処理して3Dプリンターで全身像を作成する、遺影ならぬ「遺人形」が売り出された。ネット上やパソコンなどに残された故人の言葉や映像など様々な情報を「デジタル遺品」と称し、これを死後に閲覧する技術開発の必要性を訴える研究者からは、この人形はせっかくのデジタル情報をアナログ化したものと疑問が投げ掛けられる。だが、そもそもデジタル・アナログのいずれにせよ、それ自体に例えば拝む価値があるのではなく、それをよすがとする思い出、個人との関係性の記憶にこそ価値があるのだろう。

デジタルな個人情報は流出、拡散、悪用の恐れがある一方で、ある仏教学者は「ネット業」を指摘する。輪廻や悪業悪果でいわれる人生の行いとしての業と同様に、個人の検索や書き込みなどネット上の行動は全て記録される。その報い、結果がいつどのような形で因果応報として出てくるか分からないのも同じで、しかもネット業は何度も、相当な未来でも結果を生じるというのだ。

元々、一つの伝達技術にすぎないデジタルを過大評価する牧歌的誤解の態度は、複雑な人間関係や社会構造への関わりでは役に立たないどころか害悪でさえあるという。宗教改革は印刷機という技術が生み出したものではなく、教会の腐敗に人々が対抗したからであるのと同じく、社会変革を進めるのはSNSではなく苦に立ち向かう人間である。学習能力が飛躍的に向上したAI(人工知能)も、例えばツイッターなどで発信される「堪能」という言葉が膨大ならばこれを「プラス」と学習し、「我慢」は「マイナス」と捉えるという。「ワン・ゼロ」の二分的発想がいかに浅はかかが分かる。

寺社や宗教者がネットで様々な情報を発信するのは重要だが、ホームページで言いっ放しや“バーチャル参拝”のアクセス増加を喜ぶだけでは駄目だろう。知人が亡くなったらネットで「死」や「死後の世界」を検索し、ついでに葬儀会社のサイトに直行するデジタル世代を、寺や教会に向かわせ、直接対話に導くためにも。