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「阪神淡路」から23年 広がる宗教者ボランティア

2018年1月24日付 中外日報(社説)

阪神・淡路大震災から早くも23年がたった。四半世紀近い年月が経過すると、どのような大事件でも社会的な記憶の風化が語られるものだが、それを直接体験した人々にとってはそうではない。

毎年1月17日を迎えると、まるで昨日のことのように鮮明に、あの時と、それに続く日々の記憶がよみがえる。被災地のありさま、出会った人々の姿、表情が脳裏をよぎる。あの日を起点に何か一つの歴史が始まったというふうに、記憶が整理されてゆく。

震災があった1995年は、今では「ボランティア元年」といわれる。神戸の被災地では市民ボランティアと共に宗教者が活動する姿をしばしば見かけた。宗教界にとってもあの日から何かが変わったと見ることもできるだろう。

宗教者が苦しむ人々に手を差し伸べることは、それぞれの宗教性に根差す当然の行いである。歴史をひもとけば、飢饉の折の飢民への施粥など、そうした実践は数多く挙げることができる。他方、明治維新後、存続の基盤が揺らいだ仏教は、自らの社会的存在意義を示す必要を強く意識してきた。戦時下の従軍僧派遣などもその内に含まれる。近現代の仏教にとって独自の社会(国家)貢献という課題は昨日今日に始まった新しいものではない。

しかし、ボランティア元年以降、基本的な宗教的動機・意識は変わらないにせよ、災害被災者や社会的弱者の支援など宗教者の社会貢献活動は、市民的公共性の担い手といったボランティア論の文脈の中に置かれ、その約束事にも従うことになる。傾聴など宗教者の立場を生かした支援領域は当然存在するが、信者勧誘活動などは逸脱として批判される。

一方、この間、宗教の「公益性」をめぐる議論やソーシャルキャピタル論などの中で、宗教者の社会貢献は目に見えやすい位置付けを与えられるようになったといえる。宗教団体にとって社会的活動をさらに展開しやすい枠組みが定着したと見ることもできる。

例えば、禅宗では「動中の工夫は静中の工夫に勝ること百千億倍」という。坐禅だけが修行ではない、作務もそれに勝る修行なのだ、という考え方だ。宗教者としての社会活動は、ボランティア概念以前の、宗教的な姿勢の中から当然の行いとして現れてくるものであるが、阪神・淡路大震災以後はこうした宗教的理解の影響下でボランティア活動は一層活発に行われるようになった。

23年前の被災地の記憶と共に、宗教の立場から改めてボランティア元年の意味を考えてみたい。