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二つの大震災が問う 犠牲の上の安らぎとは

2018年3月9日付 中外日報(社説)

福島第1原発の事故により長期避難を強いられた人々が賠償を求めた全国約30件の集団訴訟で「ふるさと損失慰謝料」という概念を認める判決が出始めた。地域コミュニティーを失った精神的苦痛への賠償という。生まれ育ち、掛け替えのない人間関係を築いたふるさとに愛着を持つなら当然の要求に思えるが、裁判に訴えないと、かなえるのは難しいものらしい。

故郷を追われた悲嘆に社会的な共感の輪が支えにならないと、この国は動かない。しかし、全国に離散した避難者の子どもへの陰湿ないじめを度々耳にする状況がある。避難者の苦闘が案じられる。

2月20日、強制避難を前に自死した福島県飯舘村の当時102歳の男性の遺族に慰謝料など1520万円を支払うよう福島地裁が東京電力に命じた。この判決も100年以上続けた村の生活の基盤を晩年に根こそぎ奪われた無念を酌んでいた。判決後、遺族は「『じいちゃん、安らかに眠ってください』とようやく言える」と語っていたそうだ。

だが、判決にインターネット上で一時千件を超えるコメントを集めたサイトが現れ、コメントの多くは「高額過ぎる」「どうせ寿命だったんだろ」「葬式代と香典で十分だ」など、悪意に満ちたものだった。その後削除されたようだが、暗然とした気分が消えない。

これが今の世相とは思いたくない。だが、理不尽な死や災難に遭った人々の悲しみに思いやりや想像力が働かないと、世は退廃していく。その点で昨今の社会潮流に深い懸念があるのは否めない。

阪神・淡路大震災では災害弱者の苦境が注目された一方で、中間層の受難という側面があった。震災直後の神戸で、間口の狭い似た造りの10戸余の戸建て住宅がもたれ合って倒壊していた光景が目に焼き付いている。高度成長を必死に支えた企業戦士が、ローンで手にしたマイホームが震災で倒壊すると公的援助はなく、今度は多重ローンに苦しんだ。被災者の強い運動で3年後に被災者生活再建支援法ができたが、成長路線の曲がり角を暗示する災害でもあった。

当時自治相だった故野中広務氏は「被災者が立ち上がれない国は駄目な国になるんだ」と同法を後押ししたそうだが、今の政権にそんな信念を語る政治家はいまい。

思えば原発事故の避難者も経済発展の犠牲になった人たちだ。成長を目指す限り、その裏で苦しむ人々が必ず出てくる。だが、誰かが犠牲になっていく社会で、心の安らぎが得られるものなのか。年々巡りくる「3・11」に問うべきはそのことではないだろうか。