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長寿時代の苦 生死を離れた生き方で

2018年4月4日付 中外日報(社説)

日本は男女とも世界でトップクラスの長寿国である。誠にめでたいことだ。長寿と乳幼児死亡率の低さは、犯罪率の低さ、教育の普及度と共に国民生活の高さの指標になる。経済的な豊かさだけが指標ではない。しかし長寿にはむろん社会的な問題がある。出生率が低い場合は特にそうだ。

長寿者自身の問題もある。知人が治りにくい病気に罹った。治癒することはなくても介護は行き届いているから、寝たきりにならずに暮らしてはいる。しかし身体を動かすのが楽ではない。その間に親しかった人たちが亡くなっていく。その訃報に接して彼はふと「旅立ってゆく友人がうらやましい」と漏らすのである。

生物は必ず死ぬ。しかし我々が使う言葉は一面的だから、生は生で、死は死であるとして、生と死を分けて考える。生と死はもともと別物で、死が生を滅ぼすと思われてくる。その結果、人は生に執することになる。人間はもともと不死であったのに、犯した不注意のために死ぬことになった、という意味の神話もある。生物には自己保存の本能で死を避ける。生きている人は死にたがらないものだ。

逆の場合もある。生が苦だとは仏教の基本洞察だが、苦は煩悩のせいだけではない。本人の責任ではない生活苦もあり病苦もある。その辛さはなかなか分かってもらえない。早く死ねばいいのにと思うことがあっても不思議はない。そもそも生きていることが不思議である。私は気が付いたら私で、それ以来「私」であり続けているが、どうしてこういうことになったのか、なぜ私がいるのが今・ここであって、広大な宇宙の他の場所や時ではないのか、なぜ私が人間なのか、なぜこの身体が私なのか、皆目分からない。それでも折角ここに人として生を受けたのだから、生きている間は生きることを大切にするのが当然だろう。

しかし実は生きることは「生死する」ことであって、生と死を切り離すことはできない。生まれて生きることを受容する人は死をも受容しなければならない。仏教は生と死の一方に執することを嫌い、両者を切り離さずに、生死を離れるという。聖書にも「生くるは善し、死もまた悪しからず」という意味の言葉がある。

さて上記の知人は宗教者だ。生死を超えるすべを知らないわけではない。およそ生きている間は生きることを大切にしなければならないと心得てもいる。それでもふと「旅立ってゆく友人がうらやましい」と言う。人間の生き方に関わる正直な言葉であろう。