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潜伏キリシタン 世界遺産登録と弾圧の歴史

2018年5月18日付 中外日報(社説)

現在、多くの国で使われているグレゴリオ暦は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世が制定した太陽暦で、1万年に3日の誤差しか生じないという。

日本では幕末の頃まで、月の満ち欠けに基づく太陰太陽暦(いわゆる旧暦)が使われてきたが、維新後の明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日とする改暦が実施され、欧米諸国と足並みをそろえることになった。だが一部には、それより約300年前からグレゴリオ暦で生活してきた日本人がいた。長崎地方の“潜伏キリシタン”と呼ばれた人々である。当時、日本への布教に努めたイエズス会宣教師の影響で、クリスマスや復活祭の日取りを最新の暦法で定めていた。

徳川幕府による1614(慶長19)年の禁教令により、国内のキリスト教徒は姿を消したはずだったが、かくれキリシタン信仰は根強く伝えられた。

幕末の開国を機に、パリ外国宣教会から派遣されたプチジャン宣教師が1865(元治2)年、在留フランス人のため長崎に大浦天主堂を建てた時、約15人の男女が訪れて「パードレ(神父)様、サンタマリア様の像はどこにおられますか」と尋ねたことから、この地で約250年間、ひそやかに信仰が受け継がれていたことが分かった。いわゆる“日本の信徒再発見”である。この人々の使う教会暦は、グレゴリオ暦と1日の誤差もなかった。

開国したとはいえ、日本ではまだ禁教令は続いていた。幕府はその後「浦上四番崩れ」と呼ぶ弾圧を加え、政権を引き継いだ明治新政府もそれを継承。4千人近い信徒が約20カ所の牢に閉じ込められ、獄中で約600人が死亡したという。現在のカトリック大阪司教区・前田万葉大司教は長崎県五島列島の出身だが、4代前の先祖のうち3人の女性が殉教したとのことだ。

諸外国の抗議で「切支丹禁制」の高札が撤去されたのは、改暦と同じ73年だった。

生き残った信徒が長崎に帰った時、田畑や家屋は荒廃し、生活のできる状態ではなく、孤児や捨て子が多発した。フランス人宣教師らの指導で岩永マキら4人の女性が「女部屋」という施設を設け、子どもたちの母や姉となり養育に当たったのが、日本の女子修道会第1号となる「お告げのマリア修道会」の発祥である。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録されることが確実になった。観光的視点だけではなく、宗教的意義も考えてみたい。