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「死に至る病」 “一知無理解”の恐ろしさ

2018年6月27日付 中外日報(社説)

新幹線のぞみ号車内で殺傷事件を起こした容疑者が残したノートの中に、「死に至る病とは絶望である」と書かれていたという。前後の文脈は不明であるが、これは紛れもなく実存思想の先駆者キルケゴールの有名な言葉である。ただし、原典から離れて独り歩きした意味で引用されることもある。

キルケゴールの『死に至る病』を読んだ者であれば、このような凶行はとうてい考えられるものではない。優れた思想家の言葉もこんな形で持ち出されてみれば、一知半解どころか“一知無理解”と言わざるを得ないだろう。

絶望は精神の病、自己における関係性の病のことであるが、キルケゴールは絶望というものをあくまで逆説的に捉えている。徹底した絶望は、人をして死ではなくて生命、しかも永遠の生命へと人生態度を転換させるよう促すものである。彼はこの著書を、並外れたキリスト者である「アンチ・クリマクス」の仮名で著した。

思想の言葉が安易に引き合いに出される例は、枚挙にいとまがない。哲学書だけでなく宗教書も同様である。そもそも「聖書は悪魔も引用する」と言われるぐらいだから、一知半解はまだ良い方で、“一知無理解”や“一知曲解”の類も世間には数多く見られる。これら人類の叡知の書に接する際は、読者の側に相応の読むべき姿勢が要求されるだろう。

作家の安岡章太郎は、自分が本を読むというのは繰り返し読むということだと、あるエッセーの中で述べていた。書物を綴じた革紐が3度も切れるほど、孔子が易経を読み込んだ故事にちなんだ「韋編三絶」という言葉もある。本来、哲学書や宗教書はそのように読んでいってこそ、自分の血となり肉となるものである。

情報ならばインターネットで検索され、消費されて後、捨てられる。情報とはもともとそのようなものだ。しかし知識はそうでない。文字通りしっかりと身に付け、活かしてこそ、我々にとって生きる糧となる。その意味でも、哲学思想や宗教の教えは情報ではなく、知識である。

これらの書物は、じっくり読んで、その内容を折に触れて反省し、そしてまた同じ本を読み直すことが求められる。この反復作業こそが、読書をして人生の糧となるものである。また、その道の先達の助言も大切だろう。幸いなことに、優れた書物はいずれも古典的名著として我々の手に届くところにある。図書館や書店の書架、あるいはもうすでに自分の家の本棚にあって、我々が手に取って読まれることを待っている。