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オウム事件と死刑 宗教の「赦し」といのち

2018年7月11日付 中外日報(社説)

オウム真理教の一連の事件で、教祖の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚ら幹部7人に刑が執行された。「宗教」の名の下に行われ日本社会を揺るがせた凶悪事件は、だが真相が解明されないままだ。人命を国家が奪う「死刑」の実行で、特に宗教界にはさらなる問いが発せられたともいえる。

死刑を「国家による重大、深刻な人権侵害」とする日本弁護士連合会が「再審請求中や心神喪失の疑いのあるものも含まれる」と抗議声明を出した。宗教教団の中にも死刑制度に反対し、これまで執行の折に批判声明を出してきたところも多いが、それは刑事司法体系に関わる見解というよりも、ほとんどの宗教が「いのち」を絶対的価値として「殺すなかれ」と訴える、信仰の根幹に基づくものだろう。その立場からは今回の処刑にいかに対応するのか。犯罪事実が確定し被告が極悪だからといって判断が異なるならば「絶対」とは言えないかもしれない。

一方で、その「いのち」が全て等しく重みに差はないという宗教的理念からすれば、無差別に多くの人を殺めた者への報い、罰をどう考えるか。ここで「正義」を持ち出すならば宗教的な問題はなお複雑になる。社会的な「正義」ほど相対的で曖昧なものはなく、ある正義や倫理を絶対化するには、その根拠に絶対的な神や仏を据えるしかないからだ。

他方、松本サリン事件で妻を殺害されながら一時は犯人扱いされた河野義行さんはかつて実行犯たちを「恨んでいない」と“許し”を語った。「してしまった事をどう反省し総括するかはその人の心の中の問題。恨むという無駄なエネルギーを使って限りある自分の人生を無駄にしたくない」との姿勢は感銘を広げたが、重い罪を犯した人間への宗教的な「赦し」はまた違うものだ。一体、誰がどんな根拠で赦すのか。同じ人間である宗教者には、それを受け入れられるのかどうか姿勢が問われる。

今回処刑された新実智光死刑囚を事件よりはるか以前に取材した際、教祖への信仰を輝く目で語るその態度、周囲にも同様の信者が集うのに強い違和感を抱いた。彼は控訴審でも地下鉄サリン事件を「救済の一環」と「尊師」への絶対的帰依を改めなかった。格差が広がり生きにくい社会で若者がなぜこのような「宗教」に駆り立てられたのか。逮捕された信者の「(苦悩を抱えたときに)寺は風景でしかなかった」との供述に危機感を募らせて、自坊を地域に開き自死防止活動など様々な社会的取り組みを始めた僧侶もいる。事件は終わってはいない。