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デジタル世代の罠 宗教のアナログ的強さ

2018年8月1日付 中外日報(社説)

「デジタルネーティブ」という言い方がある。物心ついた時からコンピューターやインターネットが身近にあり、それを当たり前のように使いこなす人たちを指す。

その特徴は、ウェブ上の仮想世界とリアルな現実世界との区別がなく、従ってオリジナルとコピーの差異もない、また、情報は無料だと考えているので、わざわざ金を出して新聞や雑誌を買わない。キャッシュレス決済に慣れて、クレジットカード情報の入力に抵抗がないなどがある。

デジタルネーティブたちは、いまや社会のデジタル化を後押しする存在である。これは暮らしの利便性を促進させる一方で、危うさとも表裏一体である。誰もが気が付くのは、こちらの個人情報が知らないうちに第三者に把握され、時に悪用されてしまう危険性だろう。けれども本当に危険なのは、生身の人間として現実世界に生きているという感覚が希薄になることである。

この感覚とは、我々が生老病死の中にあるという根本事実に対する感覚だ。生老病死は、誰もがたどらなければならない人生の連続した過程だといえよう。生まれることは老いることにつながり、老いはまた病を伴い、そしていつか死へと至る。この過程はまさにグレーゾーンに満ちたアナログ的連続体であって、オンとオフ、0と1だけで表示できるデジタル的なものでは決してない。

世の中の利便性追求は、人間の老いというものをどこまで想定しているのだろうか。郊外型の大型店舗は昨今の車社会に対応したものだが、高齢者になって運転免許を返上したら、途端に買い物難民になってしまう。同じことがデジタルネーティブにも起きることになる。彼らもいつか老いて記憶力や判断力が落ちてくると、操作を忘れたり、進んだアプリケーションについていけなくなったりして、使い慣れたはずのスマートフォンを手にしたまま茫然自失してしまうこともあり得るのだ。

社会がデジタル化することによって失われるのは、我々のアナログ的な人生感覚、世界理解である。物事が進み過ぎると、自分が生老病死の内に生きる生身の人間であることを忘れてしまいがちである。そんな時、我々をこの人間存在の根本事実に立ち返らせてくれるものが、まさに宗教ではないだろうか。宗教こそ、神仏の教えを通じて、我々に生老病死を直視させることで、現実世界をいま一度真に生き直すことへと促してくれる。我々はそこに新たなアナログ感覚の回復を見ることができるのである。