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尊く清らかなもの 神なき時代が失った感覚

2018年8月8日付 中外日報(社説)

古代ギリシャの哲人たちは正義や善や幸福とは何かと問うとき、考えながら対話する方法を取った。これは当然のことで、善や正義や幸福は人がこの社会で行動するときにはたらく基準であって、自然界に客観的に存在するものではないからだ。換言すれば、それらは言葉の世界の中に姿を現すものだから、まずはそれらを語る言葉の吟味から始めたのである。

それに対して自然界の事物の認識のためには、それらを語る言葉を分析してみても始まらない。実際に事物に当たって、観察したり実験したりしなければならない。近代の科学が古代の哲学から分かれたのは、認識の対象が古代とは違ったものになったからである。

さて、正義とは一般的には「正しいこと」であり、正しいとは、普通は「通念的基準に従っている」ことだが、より抽象的には「あるべきものが、あるべきところに、あるべきように、ある」ことだ。従って「正義とは何か」と問うときには、具体的に何が正義とされているかを問うのが重要であり、正義の検討の場合、まずは「誰それにおける正義の概念」が問題となるのである。

善の場合も同様で、「よい」という言葉の使用を吟味すれば明らかなように、「よいもの」とは「望ましいもの」「選択するとき優先順位が高いもの」のことである。同様に「幸福」とは「多くの望ましいものが、自分の手が届く範囲内にバランスよく配置されている状態」のことだといえる。

これらの検討の場合にも、抽象的定義自体より、具体的に何が善あるいは幸福とされているかが重要なのである。

宗教的概念の場合も同様だ。例えば、いきなり「神とは何か」「神は実在するか」と問うてみても始まらない。多くの言語に「神」やそれに相当する語があるが、意味内容はほぼ同じで、「何よりも尊く清らかなもの、世界と人間を超えた非日常的な力を持ち、悪や穢れを排除し、自然と人間に恵みあるいは罰を与え得る存在」というようなものである。ただし、「神」は見えないから実際上はどこで「神のはたらき」が経験されたかが問題で、その主体が「神」とされたわけだ。

こうして様々な「神」が立てられたが、「はたらき」の経験抜きで「神」が立てられたのではない。だから中心はやはり宗教的経験の質にあるのだ。

現代は神なき時代だといわれるが、それは科学的認識が優位になったせいではなくて、実は「尊く清らか」という感覚と経験が失われたからではないだろうか。