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しらんふーなー 弱者の痛みに知らぬ顔

2018年9月19日付 中外日報(社説)

20余年前、ボランティア興隆期に耳にした「弱者、少数者の幸せは全ての人の幸せ」という言葉を思い起こす日々が続いている。片隅に生きる力のない人々や少数派が差別され、排除される社会は、誰もが心の平安も安穏な暮らしも得られない。多数原理で動く政治や行政に対しボランティアは苦しむ人がいたら、たとえ一人でもそこに行くからこそ強いのだというボランティア精神の信念を、逆説的に言い表したものである。

そのことを今、持ち出したのにはそれなりの理由がある。

生活保護の受給者たたきから福島原発事故避難者へのいじめ・嫌がらせ、沖縄の反基地運動や「在日」の人々に対するヘイトなどにとどまらない。国会議員までが、国会で受動喫煙対策を訴えるがん患者に「いいかげんにしろ」と暴言を浴びせ、沖縄の米軍機事故に絡んで「それで何人死んだんだ」と無責任なヤジを飛ばす。性的少数者には「生産性がない」と月刊誌に悪意に満ちた投稿を寄せる。官界も、中央省庁ぐるみで障害者雇用を水増しし、結果として障害者の働く機会を奪っていた。

社会的包摂を迫られる時代に、逆に底が割れたかのように不寛容がまん延する。ネット社会の影響も含め、原因は複雑で様々に分析されているが、他者が置かれた困難や痛みに想像力が働かない知的衰弱が共通項として潜んでいるのなら、状況は深刻だ。みんなが幸せな社会が、ますます遠のくばかりだから。

《復興は進んでゐると謂ふ人のうすきくちびる見つむるわれら》

以前、毎日新聞に掲載された会津若松の歌人・本田一弘さんの作品の一つである。不寛容は無関心と表裏の関係にあり、災害時には被災者への関心が持続しないという形で可視化される。東日本大震災は、原発事故で今も4万数千人もの人が自宅に帰れない。

本田さんは、そのむごさと悲憤に目をそらす無神経な言葉に異議を申し立てている。冒頭の「弱者、少数者……」が災害弱者の存在が注目された阪神・淡路大震災の現場で語られたのも偶然ではなかった。

災害だけではない。沖縄方言の「しらんふーなー」は見て見ぬふりの意味だが、米軍基地の集中による数々の災いも、安倍政権の強引な辺野古移設も、鏡には「しらんふーなー」を決め込む本土のむき出しのエゴが映っているはずだ。

苦難を抱える人々に心が動かない。その無関心は人間関係に深い溝を生み、社会を分断する。知らぬ顔で済むことではない。