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哲学と宗教の姿勢 対象が意義を問い直す

2018年9月26日付 中外日報(社説)

『こどものてつがく』(高橋綾・本間直樹著)という最近出版された書籍の研究会が、ある大学で開かれた。「ケアと幸せのための対話」の副題が示すように、子どもと子どもが、あるいは大人がそこに関わって自由に話し合いをする中で、「哲学」が本来目指すものである人間の生き方や「幸福」「知」の探求の筋道が浮かび上がるという観点は、多くの宗教者が様々な場面で繰り広げている人々への取り組みにも通じる。

哲学者である著者らは各地の学校教室などで子どもに呼び掛け、「子どもって何?」「友達とは」「大切なものは?」など平易な言葉でやりとりする。問題発言が出ても頭ごなしに否定せず、「なぜそう思うのかな?」「それ、正しいのかな」と柔軟な思考を促す。

車座になってボールを回し、それを持った発言者に注目してしっかり聴くという工夫は、宗教者による心のケアで重視される「傾聴」と同じ。「期待されることではなく自分が本当に言いたいことを」「『分からない』『自分は違う』が自由に言える場所に」との姿勢は、人々へのいろんな寄り添いの根幹となる「包接」や「何もできなくても一緒にそこにいること」との姿勢とも通底する。学術的分析など本自体はどう見ても「子ども向け」ではないが、「子どもに関する哲学」でも「子どもに教える哲学」でもなく「子どもとともにする哲学」であるところに、子どもらが生きる学校や地域などの現場に向き合って対話を続けた研究者の立ち位置の重要性がある。

学問研究では、対象の側から研究の方法論を問い直されることがある。この場合もそれで、「哲学」といえばアカデミックな空間で文献を渉猟して観念を構築するというイメージに対し、互いに対等な立場に立った人たち、子どもたちがコミュニティーをつくり思いを語り合うこと自体が「哲学する」ことと捉えられる。「このように実質があるなら、敢えて『哲学』と言う必要さえないのではないか」との見解もあり、「哲学」というものの在り方、存在意義までもが問われるということだろう。

それは宗教における人々へのケアと「教化」との関係、そもそも宗教とは何のためにあるのかという根源的問いが、生身の人間が生きる現場に宗教者が関わるときに立ち現れるのと同じだ。医療現場への寄り添いから始まり、30年の実績を重ねた「ビハーラ」運動の呼称に疑問が出る。「臨床宗教師」も同様に、理念の表現としての呼称ということは置いても、「宗教は本来、臨床であるべきだ」と原点を見つめる意義が論議される。