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「教育勅語」発言 憲法20条2項の意義を学べ

2018年10月12日付 中外日報(社説)

日本国憲法第20条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と規定している。これは取りあえず、どのような宗教も信仰する自由があることと理解できる。そして「特定の信念体系を信じる自由を妨げられないこと」こそ主たる内容だと受け止められることが多い。そこには「特定の信念体系」とは、キリスト教、仏教、新宗教などの諸宗教集団が担うものだという前提がある。

だが、日本国憲法第20条には、第2項に「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」とも記されている。明治維新以後、第2次世界大戦の敗戦に至る時期の日本で起こったことに照らし合わせると、この第2項の意義が大きいことを忘れてはならない。

というのは、明治維新以後、とりわけ大日本帝国憲法の制定と教育勅語の渙発以後、「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加すること」の国民への強制が広く行われ、そのことが基本的人権の甚大な侵害をもたらしたという事実があるからだ。

伊勢神宮の祭神・天照大神の子孫である歴代天皇が、一度も途切れることなく世を治めてきたという教義が国民に押し付けられていった。日本は「万世一系の国体」に則り天皇が皇祖神を祀る、ほかに例のない優れた国だという信念、それに基づく行為・儀礼・祝典への参加が国民に教え込まれていった。「教育勅語」はそのような天皇の神聖な言葉、すなわち尊い「勅語」であり、「天壌無窮の皇運」の尊さを国民に教えるものである。戦前の日本国民はそれに拝礼し、それを記憶することを強制されたのだ。

「万世一系の国体」や「天壌無窮の皇運」に関わりが深いものとして、国民に強いられたものは少なくない。学校では全員参加で御真影(天皇の肖像)への礼拝が行われ、神聖な天皇を讃える唱歌が歌われた。やがて学校には御真影と教育勅語が鎮座する奉安殿が建てられ、児童生徒はそこでの礼拝も求められるようになった。学校や軍隊では伊勢神宮や皇居の遥拝、靖国神社ほかの神社への参拝が求められた。

このように明らかに宗教的内容を核とした特定の信念体系が人々に押し付けられたことによって、「国体護持」のためにはいのちを捧げて戦うというような考え方が広められ、国民の生命を軽視する戦争をとどめるすべを見失うまでにもなった。「教育勅語には使えるところがある」と語る文部科学大臣には、こうした歴史をしっかり学び直してほしいものだ。