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僧侶の「給与」とは 宗教者としての意識変化

2018年10月19日付 中外日報(社説)

実態と乖離した原理・原則に拠って立つ発言はしばしば精神的に硬直した印象を与え、そのようなこわばった姿勢は苦笑を招くことがある。しかし、果たして苦笑していいのか、その笑いは本来、自分自身に向けられるべきものではないか――時には自問した方がいいかもしれない。

3日付本紙掲載の京都仏教会の研究会で、宗教者の「給与」とは、国が税務上の処理をするための法的擬制である、という議論がなされている。つまり、宗教上の理念に基づけば宗教活動に対する「報酬」や「給与」とするのは誤りだが、所得税の課税の便宜上、「給与」と見なして扱われている、ということだ。

それによって、一般の給与所得者と同じ基準で宗教者も納税の義務を負う。この擬制は社会的公平性から見て十分に意味がある。規模の大きい宗務組織に、宗教者ではなく一般職員と同じ立場で勤務しているならば、僧侶の公務員等兼職の報酬と同じで、擬制と考える必要もないだろう。

ところで、「報酬ではない」という主張を聞くならば、多くの宗教者は「理屈」としては理解できても、「何を今更」と感じるのではないだろうか。宗教活動が労働で、「給与」は私的に受け取る対価というのが日常的実感なら、もはや何をかいわんやだが、このような実感を持つのは決して好ましい兆候ではない。

上記研究会の司会を務めた社会学者の田中滋・龍谷大教授は、「給与」といって疑わない宗教者の感覚を宗教界自体の「世俗化」を象徴すると評した。世俗化とは宗教社会学の概念で、宗教が公的な機能を失い、私事の領域に縮退していくことを指す。今の文脈でいえば、「報酬」とはいわない宗教的根拠が世間的には通用しにくくなり、宗教者もその根拠を強く意識しなくなったということだろうか。

仏教の僧侶は明治維新後、特殊な身分・地位を失い、「肉食妻帯勝手タルベシ」とされる一方で、一般市民と同じく課税や徴兵の対象とされた。そうした国家の政策に対し、宗教者も信仰の立場を強く主張し続けることはできず、社会の世俗化の波にどっぷり漬かり、宗教者としての意識自体も徐々に変化していった、と言わざるを得ない。

「給与」という言葉から話が大きくなったが、しかし本来、僧侶など聖職者にとって「報酬」や「給与」という概念は、お国の都合に合わせた擬制であるということは忘れないでおきたいものだと思う。