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宗教の自己改革 純粋な宗教性の追求

2018年10月24日付 中外日報(社説)

現代の社会で宗教への関心が薄れていくのは、世俗化した社会にも問題があるが、伝統からの脱却を果たせないでいる宗教の側にも問題があろう。宗教の自己改革が求められているといえようが、改革といっても宗教を単に現代人の「需要」に合うように変えればいい、ということではあるまい。

宗教改革といえば、16世紀の西欧で起こった、カトリック教会からのプロテスタント教会の独立が代表的である。カトリック教会の免罪符発売に対するマルチン・ルターの批判が世界史的事件へと発展したのは、その神学的批判が、中・北欧のバチカンからの独立運動、民族主義の抬頭と結び付いたからである。宗教改革が政治運動と結合したわけだ。

とはいえ、ルターの真意が宗教の純粋性回復にあったことは否めない。当時のカトリック教会は、サン・ピエトロ寺院という巨大な聖堂の建設などもあって財政的に逼迫していたので、信徒の天国入りの鍵を持つとされた教皇が免罪符を発売したのである。それを批判したルターらの改革者はバチカンの関与を排して信徒と神との直接の関係を重視したのであった。信仰の純化を目指したといえる。

他方、我が国の鎌倉仏教の成立についても同様の指向が見られよう。南都北嶺には鎮護国家の思想に基づき、加持祈祷が重んじられた。それに対して、浄土教と禅宗は信心と覚の純粋性を求めた、という見方がなされる。

日本人は正月には神道信者、葬式は仏教者、結婚式はキリスト教徒で、宗教的節操がない、とはよく聞く揶揄だ。それに対し、宗教間対話が進んだ最近では、日本人は宗教間の争いをなくして上手に宗教のすみ分けを果たしているという「賛辞」もある。

これらの儀礼は、人が新しい領域に入るについて祝福を与える、いわゆる通過儀礼だが、日本では通過儀礼には宗教性が残っているわけだ。しかし最近では無宗教の結婚式、葬式も多くなった。いずれにせよ、ここには純粋な宗教性はない。

また、高度成長期の会社では禅者の指導のもとに坐禅会が開かれ、いまは、いわゆるマインドフルネスの瞑想が注目されている。だが、これも宗教心の純粋性を求めるものとは考え難い。

現代において宗教の自己改革が求められているとすれば、宗教に対する社会の「需要」に応じる方向ではなく、むしろそれを排して、政治と経済中心の現代において、純粋な宗教性がいかなるものかを明らかにすることではないだろうか。