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感覚と客観的事実 我々の「現実」とは何か

2018年10月31日付 中外日報(社説)

戦後、自然科学の発達が著しい。医学生理学も同様で、特に遺伝子研究が既に日常生活に革命的な変化をもたらしている。他方、昔から問われ続けてはいるが、一向に進歩しない領域もある。これは純然たる科学的な問いというより、哲学や宗教と関わる問題である。

例えば我々には視覚があり、「見える」という経験がある。しかしどうして見えるのかは分からないままだ。外界の事物から発せられる光が目のレンズを通して網膜上に像を結び、それが電気刺激に変換されて脳に伝わり、脳内で視覚に再変換されるということは分かっている。しかし、経験に即していうと、我々には物が見えてはいるが、変換装置の介在は全然視野に入ってこない。

性能の良い望遠鏡が作られて百億光年以上離れた銀河まで見えるようになった。この場合、我々には望遠鏡という微弱な光を可視化する変換装置自体も見えている。それは、望遠鏡自体が我々の視覚の対象になるからだ。

では物理的刺激を視覚に変換するための装置、つまり目と脳の働きは見えるかといえば、それを自分で見ることは全く不可能だが、他人の場合なら、外界の事物も目も脳の働きも外から観察することができる。

ではその装置の全貌が望遠鏡の場合のように観察できるかといえば、やはり部分的にしか分からない。他人の視覚という感覚そのものをいわば横から、客観的に見ることは不可能だからだ。他人の感覚そのものを対象化して認知できないから、他人の脳が感覚そのものをいわば分泌するさまを見ることもできないのである。

感覚そのものは、我々が普通に知っている物質ではない。そもそも客観的対象にならないし、質量も形もなく、位置も決定できず、分子式で表現することもできない。物質でないものがあるかという問いがあるが、それは感覚や思考としてすぐ身近にある。

このような非物質的現実をいきなり客観化すると、「霊魂」という「客観的存在者」が立てられる。するとそれが発展して「霊魂」について語られるようになり、死後霊魂が身体を離れて自分の身体や周りの家族を見る、などという話もできる。もし本当なら霊魂に肉体的な目と脳があることになるから、矛盾した話である。

感覚という、生きる上で最も基本的な現実の成立過程が今なお不明なままだということは、客観的事実だけが現実だとされる現代で、心得ておいて損はない事実だろう。