ニュース画像
昨年解散した京都市上京区の了徳寺
主な連載 過去の連載
エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

変革期の宗教 伝統への忠実、真実への忠誠

2018年11月16日付 中外日報(社説)

宗教関係の学会に出ると、研究発表の大部分は過去の人物、思想、著作およびその背景となった教団の出来事に関わるものである。宗教の根底にある真実そのものの研究に従事するのは宗教哲学や神学などだが、その学会でも発表の多くは過去の思想研究だ。他方、物理学会なら、発表の大部分はまるで物理学史の研究で、古代、中世、近代の学者とその学説に関わるものだった、などということはあり得ない。

理系の人には、文系の学問が人間がつくったものの研究であり、真実そのものの探求でないと不思議に思う人が少なくない。

では文学の場合はどうだろう。文学ではまず作家と読者がいる。それから評論家が登場し、多くの場合、作家の死後に研究者が現れる。哲学の場合も同様で、まず独創的な哲学者と読者がいて、それから評論家、さらにその研究者が現れる。そして哲学史は哲学研究の中心といえる位置に置かれるのである。宗教の場合、作家や哲学者に相当するのは教祖あるいは祖師といわれる人々である。

さて宗教的真実は誰にも観察可能な客観的事実ではなく、少数の人を通してあらわれるものだ。それはしばしば啓示とか天啓とかいわれるが、それに接した人が真実を伝える。これは原理的にはともかく、実際上は誰にも到達可能なものではないから、とかく教祖・祖師の言行が重んじられ、それを中心として教団が形成される。

教祖や祖師の言説は理論的に体系化され、実践上の規範が作られる。さらに修行と布教の一般的方法も形成される。こうして教団の伝統が成立し、一般にそれらが学問的研究の対象になる。いずれにせよ宗教の場合、伝統が中心に位置し、それを守ることが教団の維持を担保することになりやすい。

しかし現代のような歴史の大変革期には伝統が通用しなくなるものだ。伝統への忠実は必ずしも真実への忠誠ではなくなる。伝統を守るあまり教団が魅力を失うことも珍しくない。今は過去の研究よりも創造の方が大切なのだ。

むろんそれは危険な道である。代表的な例を挙げれば、かつてイエスは時代の変革期にあって創造的に真実を語った。それは当時のユダヤ教批判とならざるを得なかったので、伝統重視派によって死に追いやられてしまった。その後教団が成立したが、イエスの宗教をイエスとは違う形で伝えた。

現代、できるだけ多くの人による創造が求められる。そしてそれが実を結ぶためには、正当に評価し受容し得る開けた人が同じくらい必要なのである。