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教皇来日への期待 38年ぶり、どんな足跡を

2019年1月11日付 中外日報(社説)

教皇フランシスコは昨年12月、バチカンで前田万葉枢機卿(カトリック大阪大司教)に「2019年の年末に訪日して、被爆地の広島・長崎を訪れたい」と述べた。実現すれば、1981(昭和56)年2月のヨハネ・パウロ2世の来日以来、38年ぶり2回目となる。

2013(平成25)年3月のコンクラーベ(教皇選挙)で南米出身の現教皇の当選を予想した人は、ほとんどいなかった。日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルと同じイエズス会の会員として、アルゼンチンの貧しい人々の住む教区で働いてきた。“地の塩”のような人柄である。

就任直後、教皇フランシスコは宣教で苦労を共にした仲間のいる女子修道会へ挨拶の電話を入れたが、ミサのさなかで誰も受話器を取る者がいない。教皇は留守番電話に「あとでかけ直します」と言って電話を切った。

ミサを終えた修道院長は、恐縮してバチカンへ電話をかけたが、うまくつながらない。そのうちに約束通り、教皇の方から再度の電話がかかってきたという。

ヨハネ・パウロ2世が来日した時は、信徒間に「お迎えしたい」との要望が盛り上がっていた。しかし、信徒数40万の日本で十分な歓迎態勢が組めるだろうかと、カトリック中央協議会の司教たちは慎重だった。

宣教機関紙『カトリック新聞』の記者が先走るように「教皇を温かくお迎えしよう」との記事を載せ、それに引きずられる形でバチカンが「フィリピン訪問の帰途、日本に立ち寄る」と1980年12月下旬に発表した。来日予定の翌年2月下旬まで、2カ月しかなかった。

奇跡が起こった。中央協議会が発売した『ヨハネ・パウロⅡ世』という写真集が30万部を完売し、歓迎費用の財源となった。当時は中央協議会の組織が手薄で、担当司教や司祭は眠る間もなかった。

準備期間が短いため、ヨハネ・パウロ2世は国賓でなく、私的旅行の形で東京、広島、長崎を駆け抜けた。広島の平和記念公園では「戦争は人間のしわざです。戦争は死です」の平和アピールを発表、長崎・松山競技場の雪の野外ミサではザビエル時代以来の信仰を守る信徒3万人を祝福した。

今回は、かねて安倍晋三首相や松井一實・広島、田上富久・長崎両市長の招請もあり、国賓としての歓迎態勢が組まれるであろう。「電話、かけ直します」の約束を守った律儀な現教皇は、平和の使徒として、日本でどんな足跡を残すだろうか。