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保身と忖度 自滅への近道たどる社会

2019年2月15日付 中外日報(社説)

千葉県野田市で少女が父親から虐待されて亡くなるという悲惨な事件があった。第一に非難されるのはむろん父親だが、少女を守る人がいなかったことが問題になっている。

母親は夫の暴力を恐れて虐待をやめさせなかった。教育委員会は父親に恫喝されて、暴力を訴える少女のアンケートを父親に見せた。児童相談所は少女を一時は保護したものの、問題があるのを知りながら、少女を父親に引き渡してしまった。

こうしたことが明らかになるにつれ、同じことを繰り返さぬように法と制度を改善すべきだとする声が高い。しかし家庭内暴力を防ぐための法や制度は存在しており、むしろ運用する人の側に問題がある。

現代において、家族も社会も人間もどこかおかしくなってしまったのではないか。そもそも少女を守るべき人たちは保身に汲々として断固たる態度で暴力に立ち向かわなかったように伝えられているが、このような弱腰は一般的なのだろうか。

歴史を振り返ると、日本が「軍事的強国」になって以来、特に満州事変から政府は軍部の圧力に負けてその独走を認めてしまった。日米開戦も、多くの指導者は負けると知りながら、「空気を読んで」反対を貫けなかった。戦後の政府はアメリカの言いなりで、ドイツやイタリアのような独立性も持てないでいる。役人は政治家の意向を「忖度」し、公文書を書き換えたり破棄したりしている。

長きにわたった「徳川の平和」は社会の安定をもたらしたが、一方で、強者の言いなりになっていれば己の安全が保てるという生き方を、日本人はすっかり身に付けてしまったのかもしれない。

宗教界はどうだろうか。宗教にはそもそも守るべき真実があり、先人たちはそれを大切に伝えてきた。しかし現代の宗教は真実を社会に向けて語る言葉を見いだし得ずにいる。その結果、現代は宗教を見失って、人間性の劣化が起こっている。

そこに問題があり、宗教の存立自体も危うくなっている。それは誰の目にも明らかなのに、宗教界はもっぱら伝統の縮小再生産に甘んじているように見える。未来に向けた創造は乏しい。たまにあっても、新しい芽に注目し育てようとする人がいない。ここでもやはり冒険より保身が優越しているのではなかろうか。

しかし過去を見渡しても、保身は決して見掛けほど安全ではない。特に変革の時代には自滅への近道である。