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バリアフリー・バラエティー番組のご意見番 玉木幸則さん(48)(2/2ページ)

2017年1月25日付 中外日報(ほっとインタビュー)

人間の多様性に反する「基準」

普段は障害者総合相談支援センターにしのみや(兵庫県西宮市)のセンター長として障害者地域生活支援などに取り組んでいる
普段は障害者総合相談支援センターにしのみや(兵庫県西宮市)のセンター長として障害者地域生活支援などに取り組んでいる

ご自身の障害を受容できた後は考え方も変わりましたか。

玉木「あなたは大変ね」などと言う人に対して「そういうあなたが大変だ」と思うようになったり。「この人は、世の中にはいろいろな人がいるという多様性に対する“幅”が狭いのだ」と。

「健常者は普通」という基準を設けるのは「多様性」に反する。誰かが決めた基準から外れているから「普通じゃない」のではなく、その人にとって何が「普通」なのかは自分が決めることでしょう。それを伝えていくことで、人は生きやすくなると思います。

昨年7月、相模原市の障害者施設で大勢の入所者が殺害される事件が起きました。

玉木容疑者は“障害者なんていなくなればいい”と言っていたそうですが、そう思っている人は他にもたくさんいるはずで、「模倣犯が出るのでは」「いつか自分も」と恐ろしくなりました。

ただ、実際に殺人に手を染めるのは著しい飛躍があります。

玉木容疑者の彼は人間関係が希薄だったのではないか。彼は事前にいろいろな人に(犯行をほのめかす)話をしていたそうですが、誰もそれを本気で受け止めようとしなかったのだと思います。

事件後に放送されたバリバラに「彼に共感できる」という趣旨のメールが100通ほど寄せられたため、何人かに会いに行ったのですが、結局「障害者を養うのは国家予算のムダ」と、コストのことを言う。

しかし、さらに突き詰めて聞くと、その人自身も「会社をクビになったりして社会から切り捨てられるのではないか」という不安を抱えている。そして、その不安や怒りの気持ちが弱い立場の人に向かっている。それで社会保障に関する税金の使途や配分などを詳しく説明すると、きちんと理解してくれるんですね。

つまり障害者のことをよく分からずに「コストのムダ」と考えている。例えば、そのような誤解を解いていかなくては事件は繰り返されると思います。

ただ、事件後は容疑者の異常性ばかりを取り上げ、彼がそのような思想性を持つようになった理由がきちんと検証されていない気がします。昨年4月に施行された障害者差別解消法は障害のある人も含めた共生社会の実現が目的ですが、事件を受けて国は障害者施設のセキュリティー強化というような報告書をまとめている。これは障害者を社会からさらに隔絶させるという自己矛盾です。

障害者などの“都合の悪い人”を排除しようとする考え方は根強いと思いますか。

玉木障害の有無にかかわらず、生きるって間違いなくしんどい。みんな、いかに幸せに楽しく生きられるのかを追求している。そのツールの一つとして人間は宗教を考えたのだと思います。

それはともかく、自分では「生まれる」も「ここでいのちは終わり」も決められないし、「自分の最期」を自分で決めてはいけないと思います。生きる上で継続する苦しみを取り除くためには、医療などの他に人と人とのコミュニケーションが必要です。そのような共生の中で人は生き、そして最期を迎えるべきです。

容疑者は「障害者は不幸をつくることしかできない」とも言っています。

玉木それを聞くと尊厳死の話を考えずにはいられません。

尊厳死は突き詰めると「自殺はOK」「どうぞ、お好きに」になる。例えば、自発呼吸ができず、コミュニケーションもとれない。家族に負担をかける。だから私を殺してください。要約すれば、そんな乱暴な議論に見えます。

しかし、「尊厳」は生きているからこそ守られると思うんです。確かに本人が「死にたい」と思うこともあるでしょう。でも、人間の気持ちは変わる。それこそ分単位で変わることもある。

「終末期における本人意思の尊重を考える議員連盟」(旧称:尊厳死法制化を考える議員連盟)がありますが、本来は、家族の負担を軽減するような社会保障制度をつくり上げるなど、人々の尊厳を守るのが議員の仕事であるはずで、死ぬための意思を尊厳というような、こんなふざけた話はない。いったん法律ができてしまうと、規則にのっとって呼吸器を外さざるを得ないということも起こるわけで本当に危険です。

容疑者に見られる優生思想の発想と、尊厳死法制定の動きにはどこかに通底するものがある気がします。誰もが生きることを保障される社会を築いていかねばなりません。

他方、障害者に対して「かわいそうな人」や「頑張っている人」というような固定観念を持つ人も多い。

玉木障害者と一口に言っても先天性の障害と中途障害は違うし、知的障害もあれば、身体障害など様々な障害もある。障害の程度も異なる。「あの人は仕事をやり過ぎ。誰か止めてあげて」と言うくらい頑張っている障害者もいれば、全然頑張っていない障害者だっている。

一人一人が様々な個性や性格を持っていることは健常者と同じことで、結局は「一人の人間として見ることができるか」でしょう。それは実際にお互いにしゃべってみて距離を詰めないと分かりませんが、一方的なイメージだけで障害者のことを考えるのは差別につながります。

その点で宗教者に期待することはありますか。

玉木お坊さんはお寺で生まれ、仏教系の学校などお寺の関係者でつくる社会で育つというような人が多いですが、そのような環境で本当に多様性を理解できるのか。

学校の先生などもそうですが、障害者や在日外国人の人たちのことについて机の上で勉強をすることはあっても、その実際や目の前の当事者のことはよく知らない。

まず事実を知ってほしい。そこからしか始まらない。どれだけ多様性の“幅”を持てるかです。

宗教そのものに対するお考えは。

玉木僕の解釈では、人が自信を持って生きていける、幸せになっていける、人生をポジティブに考えていけるツールとして宗教が存在すると、すごくいいなと思いますね。

最近対談した浄土真宗のお坊さんから「宗教は赤表紙(経典)と新聞(世俗や現実)の間を行き来して、相互に照らし合わすものだ」という話を聞いたのですが、「現実の社会の中でどうやって幸せに生きていけるのかという考え方」というふうに僕は理解しました。そんな宗教ならやってもいいなと思いました。

「バリバラ」には障害者だけでなく、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー=性的少数者)など様々な生きづらさを抱えた人々が出演していますね。

玉木僕自身もすごく勉強になっています。

LGBTの方々の場合、共通しているのは「強いて言えばレズビアンです」とか「あえて言えばゲイです」とか、そういう言い方です。実は自分自身の気持ちの中で性自認や性的志向がいろいろと揺れている。トランスジェンダーのタレントとして知られる、はるな愛ちゃんも「私も揺れている」と言っていました。

誰もがそのように「揺れる」中でバランスを取りながら生きている。自分で自分のことを決め付けないで暮らしていくことが大切だと思います。

とすると、「人間」とは何なのでしょう。

玉木計り知れないもの。「私はこうだ」とか「あの人はこうだ」というものは多分ないし、語れない。みんな常に揺れ続けている。そのような在り方も含めて自分を否定しないことが一番大切で、それを認め、尊重する社会の実現を僕は目指しています。自分を大切にすると、他者のことも見えてくる。最近はそんなことを考えています。