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トップ> ほっとインタビューリスト> 機械論的生命観に疑問を呈する生物学者 福岡伸一さん

機械論的生命観に疑問を呈する生物学者 福岡伸一さん(57)

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2017年7月12日付 中外日報(ほっとインタビュー)

科学や哲学など幅広いテーマで書籍を執筆している福岡氏
科学や哲学など幅広いテーマで書籍を執筆している福岡氏

近代科学の主流とは異なる生命観を得られた。

福岡現代は情報化社会と呼ばれ、スマホでいろんな人がつながっています。情報に満ちあふれているように思っているが、動的平衡の観点から言えば情報がないんです。

何の情報が足りないかというと、生物は生老病死などをコントロールできない自然物だという実感です。全てのものがアルゴリズム(手順の定式化)で解明できると考えているのが情報化社会。けれど、生命は生死を自分では決められない自然なものであるという実感が、ネットを探してもない。生命に関する情報が枯渇していることがストレスフルなのです。

宗教でも動的平衡に似た考えがありますね。

福岡例えば、仏教の山川草木悉皆成仏も生物、無生物全てに命が宿っているという考えで、動的平衡と同じです。ギリシャ哲学でも「万物は流転する」と言うなど、様々な時代や国、宗教で語られていました。

西洋世界には抜き難い人間中心主義の考えがあります。人間だけが特別で、他の生き物は人間のために準備されている。しかし、日本の仏教では、無生物と思われているものにも生命が宿っているとしている。

我々が他の生物を食べるなどして得たものは、排泄物や二酸化炭素として体から出て、土になったり海に溶けたりして無生物の状態になります。生物と無生物を平等に考える姿勢は、科学的な視点からも納得できます。

生命の神秘から神や仏を感じることはありますか。

福岡生命を研究すればするほど、チョウのきれいさ、カミキリムシの優美さなど人智を超えた造形の美しさを感じます。けれど、「この世界を創造主が創った」としてしまえば、そこで議論は終わってしまう。

宗教と科学の違いは「Why」と「How」の問いで整理できます。「なぜ、地球がこんなに美しいのか」や「なぜ、生きるのか」というWhyの質問は、科学では答えられません。超越的な存在が作ったというような宗教でしか答えられない。

科学はまず、いかにして細胞が成り立っているか、いかにして我々が生きているのかなどHowの疑問を解こうとします。

ただ、Why疑問に関しても、宗教者はもう少し言葉の解像度を上げて説明してほしいですね。禅とか無の世界は、生命というものが言葉では言い尽くせないもの、コントロールできないものだと実感しなさいという教えだと思うのですが、そこは言葉でできるだけ説明するようにしていかないと。

データとか数式とかグラフが科学の成果ではなく、それらがどういう意味を持っているのか、我々の生命の何を説明しているのか分かりやすく言えるところが科学の出口。そこまで持っていく責任が科学者にはある。宗教者も同じように、一般の人に分かりやすく伝える責任があると思います。

著書は科学的な事柄を非常に分かりやすく説明されています。

福岡自分で納得できないことは書けません。聞いていてよく分からない話は、話している本人がよく分かっていないからです。それを中途半端な形で伝えるべきではない。そう簡単に語れるようにはならないですね。山をつまずきながら登らないと見えない風景があるように、若い科学者が最初から分かったように言えないのは当然です。

浄土について語ろうとするならば、なぜ浄土を信じるような文化がつくられ、なぜ人間が浄土を必要としているのかを解き明かしていかないと。「あるから信じろ」というのは難しい。科学者と同じように、宗教者も自分が納得していないことを本当に語ることはできないのです。