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トップ> ほっとインタビューリスト> 「死の文化を豊かに」と訴える医師、ノンフィクション作家 徳永進さん

「死の文化を豊かに」と訴える医師、ノンフィクション作家

徳永進さん(69)(1/2ページ)
2018年1月10日付 中外日報(ほっとインタビュー)

死の現場で進む「社会の定置網化」

臨床医として、これまで数え切れないほど多くの人たちの死に立ち会ってきた。死は人々を緊張させ、自由な言葉や行動を失わせる。生はマルで死はバツ。日本では死を「悪いこと」だとタブー視し、ネガティブに捉える傾向は今も根強い。そうした風潮に「死はもっと自由なものだ」と医療の現場で、言論の世界で異を唱えてきた。

医療現場や社会でマニュアル化、「定置網化」が進み、奪われる死と生の味わい。自分で考え動き、豊かな「死の文化」を取り戻そうと訴える。

(飯川道弘)

「死の文化を豊かに」と訴える医師、ノンフィクション作家 徳永進さん
とくなが・すすむ氏=1948年、鳥取県生まれ。京都大医学部卒。2001年、鳥取市内にホスピスケアのある「野の花診療所」を開設し、院長。『死の中の笑み』で講談社ノンフィクション賞受賞(1982年)。『死の文化を豊かに』など著書多数。

死とは何でしょうか。

徳永分かりません。民衆が象をなでるようなイメージがあって、全体が分からない。一つ一つの穴からこんな死だった、あんな死だったと見ているだけ。穴の奥にはいつもいるが、穴から死全体は見えません。

身体について言えば、遺体は人それぞれで、正しい解剖図を持った遺体はありません。そういう不思議な物体を持ったものが人間なのです。

身体はミルフィーユのように重層的な不思議な構造を持っています。伝統中国医学でいう五臓六腑の「三焦」は何を指しているのか分からない。でもそれでいいのです。分からないものを含んだ身体。その尊さがご遺体にはある。身体そのものが不思議な奇跡の現象であり、その身体をもって生きていることへの敬意があります。

分からない死と臨床現場で日々闘われている。

徳永何かの方法で死を捉えようと、いろんな網を持ってくるんですね。でも網の全部で捉えられた死は一つもないのです。死はいつでも網から逃げていく。網を放るなとは言いませんが、網があったら全て分かったかのように思うのは大きな落とし穴です。網に死はかからない。

「社会の定置網化」という言葉を先日思い付きました。教育の現場、死の現場さえも定置網が今どんどん仕掛けられていく。大事なのは、ガイドライン、マニュアル、アルゴリズムで事の運びを決めていくような社会では捉えきれないいのちが、同じように動いているということです。

定置網化する臨床や社会をどう捉えるか。患者さんたちにどのような方法で定置網から元の海に行ってもらうかが問われていると思います。

網に捉えられる必要はないと。

徳永一番大事なことは自分で動くということです。ところが動くのを規制することが多くなった。あっちへ、こっちへ行け。こうあるべきだ。全部指示、指令が出る。

当の死を迎える老人らはぎゅっとしている。「どうしたらいいんでしょう」と。そのまま施設に、ホスピスに送られたり、今は在宅だからと在宅になったり。主に行政、メディア、親戚、知識を持った人たちに引っ張られていく。

どの形の死でないといけないということはないのです。死は自由です。私たちは型を決めようとする。死の形について言い過ぎている。以前、樹木希林さんの宝島社の広告が反響を呼びました。「死ぬときぐらい好きにさせてよ」と。時代の中でこの一言が言えなかった。

家が捨てたもの、捨てようとしているものはいっぱいありますね。お産、育児、教育、食品、上下水道、老い、死、葬式。捨てた結果、人生の、そして死の味わいがぐんと落ちたのです。