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日本酒を世界に広める「SAKE」の伝道師 桜井一宏さん(41)(1/2ページ)

2018年3月28日付 中外日報(ほっとインタビュー)

人々に幸せや安らぎを醸し出す

京都府の伏見や兵庫県の灘などの「酒どころ」ではない山口県の、倒産寸前だった小さな造り酒屋「旭酒造」が、どん底から生み出した純米大吟醸酒「獺祭」は日本を代表する銘酒と評される。安倍晋三首相が海外首脳をもてなすのもこの酒だ。桜井一宏社長(41)は「私たちが『獺祭』を造っているのは、飲んだ人に幸せになってもらうためです」と話し、「ワインやビールのように、世界で『SAKE』が普通に飲まれるようにしたい」と、おいしい酒造りに取り組む。

(河合清治)

日本酒を世界に広める「SAKE」の伝道師 桜井一宏さん
1976年、旭酒造第3代蔵元の桜井博志社長の長男として山口県周東町(現岩国市)に生まれる。早稲田大社会科学部を卒業し、他の会社への勤務を経て旭酒造に入社。海外のマーケティングを担当し、2016年9月に第4代蔵元・代表取締役社長に就任。

日本を代表する酒になりましたね。

桜井「獺祭」が有名になっていくきっかけの一つは、旭酒造の酒が地元・山口で全然売れなくなったことでした。30年以上前の昭和の終わり頃の話です。

そこで、いろいろな地域を回って販路を開拓しようとしたのですが、全く歯が立たず、唯一、東京の何軒かの地酒の卸業者や居酒屋さんが興味を持ってくれたんです。もう、そこにしか活路を見いだせず、東京での販売に全力で取り組みました。

よく東京進出などと表現されますが、そんな格好いいものではありません。東京で売るしか、生き残る道がなかったのです。

どんな酒を売っていたのですか。

桜井当時はまだ「獺祭」はなく、「旭富士」「吟の雫」「雪化粧」「淡く青し」など普通酒から大吟醸までいろいろ造っていました。

東京にはあまり地元の酒がありませんよね。各地域から人が集まって食文化もバラエティーに富み、いろんな店もあり、営業力がなくとも品質で勝負することができました。

まず、お客さんの評判の良い酒を増やし、反応の悪い酒を減らしていきました。そのうち、取り扱ってくれた卸業者や店の人たちから「何か自分たちのグループで印になるような酒が欲しい」と言われ、それで平成2(1990)年に東京で発売したのが大吟醸の「獺祭」でした。さらに人気があるものだけを残していった結果、最終的に「獺祭」のみとなりました。

当時の東京は。

桜井大手メーカーの酒から、新潟の「越乃寒梅」「久保田」「八海山」、東北の「浦霞」など徐々に地酒メーカーの酒が脚光を浴び始めた時代で、お客さんが品質に目を向け始めているタイミングでした。その中で生き残っていくためには、品質に特化するという一点突破しかありませんでした。

品質はどの酒造会社もこだわっているのでは。

桜井確かに品質にこだわるのは、他の酒蔵さんもみんなそうだとおっしゃると思います。しかし、酒蔵というのは地域に密着していますから地元向けの普通酒の生産をやめて、品質だけにこだわった大吟醸ばかりを造ることは無理です。私たちは、地元から完全に見捨てられた状況から始まっているので、躊躇せずに大吟醸メーンにシフトすることができ、他との差別化が図れたんです。

いろんな酒がたくさんあって「みんな違ってみんないい」という状態から、ありそうでなかった「おいしいお酒」という市場を開拓し、ブランドとしても成功につながったと考えています。

どん底からの大逆転だったのですね。

桜井東京へ進出してから10年後、少し軌道に乗りかけた時に大きな問題が起きました。地ビール事業で失敗して大きな借金を抱え、倒産の危機に直面し、酒造りに欠かせない杜氏が逃げて来なくなってしまいました。

仕方なく、杜氏の技量や勘に頼らずとも酒が造れるように数値化による酒造りを進め、キャッシュフローを改善するために夏場を含め、四季を通じて酒が造れるようにしました。すると、非常に新鮮な状態で酒がお客さんに届き、「おいしい」と受け入れられ、供給力も保たれていくなど、様々なことがうまく絡み合ったんですね。その中で酒米の「山田錦」を2割3分にまで究極に磨き、フルーティーな味が特徴で飲みやすい最高の大吟醸酒の「獺祭」が生まれていったのです。