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トップ> ほっとインタビューリスト> 陶工・河井寛次郎の心を伝える学芸員 鷺珠江さん

陶工・河井寛次郎の心を伝える学芸員 鷺珠江さん(61)(1/2ページ)

2018年8月29日付 中外日報(ほっとインタビュー)

自分が幸せと思うと幸せになる

かつて「陶芸界に天才が彗星のごとく現れた」と評された陶工・河井寛次郎(1890~1966)は、木彫や建築、書などにも精力的に取り組んだ。思想家の柳宗悦、陶工仲間の濱田庄司と民藝運動を牽引し、「美」を生活環境や生き方に及ぶものと考えて生涯追い求めた。

自宅兼工房は「河井寛次郎記念館」として親族の運営で公開されている。学芸員で孫の鷺珠江さんは「今後も『変わらない場所』として、寛次郎のありのままを伝えていきたい」と話す。

(萩原典吉)

陶工・河井寛次郎の心を伝える学芸員 鷺珠江さん
さぎ・たまえさん=1957年、京都市生まれ。河井寛次郎の長女・須也子の三女。同志社大卒。寛次郎に関わる展覧会の企画や出版、資料保存を手掛け、講演会の講師を務める。河井寛次郎記念館は行政や団体ではなく、親族による運営で73年に開館。80年に同館初の学芸員に就任した。共著に『河井寛次郎の宇宙』(講談社)など。現在、臨済宗妙心寺派の月刊誌『花園』に連載中。

河井寛次郎氏は「形にする以前のものが大切」と言っています。

正しく美しい仕事は、正しく美しい暮らしから生まれるということですね。祖父はとても宗教的情緒の深い人で、出身地の島根県安来市では、お年寄りが毎日仏壇に手を合わせるようにお墓に参り、どのお墓もお花畑みたいでした。また出雲国の出身だからでしょうが、神と仏は一本の縄で切り離せないと言っています。

そういう所で育ちましたから、夜はお風呂に入ったら少し窓を開けて合掌し、その日のことを感謝していました。また外を歩いていて、遠くで働いているお百姓さんにもありがたいと言って合掌でした。寛次郎には生きている喜びと感謝が根底にあり、感受性が鋭く、人間の優しさにものすごく感激する人でした。

陶芸界では若い頃からとても高い評価を受けていました。

陶器の世界は、技術や技法の面でとことんまで最善を尽くしながらも、最後は窯というお任せの世界です。寛次郎本人の言葉を借りれば「ひとりの仕事でありながら、ひとりの仕事でない仕事」です。それにはいろんな意味があると思います。窯を焚く人がいて、薪や粘土を調達する人など、いろんな人の協力があって成り立つ仕事です。また、これまでの伝統や技術の積み重ねの上に、今の自分が成り立っていると思っていたのでしょう。

寛次郎は苦心してやっと手に入れた技法でも、手に入れるとすぐに手放せる人でした。物と向き合うんですが、物に執着がない。これだけ多くの作品を作り、民藝運動でも物と関わった人ですが。

おそらく自分の作品も、販売した数より差し上げた数の方が多いと思います。来られた方が喜ばれたら、お土産で渡していました。ちょうど農家の方が丹精込めて作った野菜を「皆さんにどうぞ」というような感じだと思います。

人は何も持たずに生まれ、何も持たずに亡くなっていくということを、一番よく分かっている人でした。

9歳まで一緒に暮らしたそうですが。

子どもだからといってぞんざいに扱う人ではありませんでした。大げさな言い方ですが、同じ地球上に、同じ一つの生命体として存在していると受け止めているような、家族に対する愛も深い人でした。

忙しい合間にも、一番小さい孫の私を呼び寄せて、「今日は柿の種だね」と言うんです。それを聞くと私は「○」をもらった気分になりました。もう一つは「今日はメロンの種だね」と。それを聞くと「△」で、頑張ろうと思いました。

そのことは長く忘れていたんですが、大人になって思い出し、素敵な言い方で励まされていたと思います。柿の種は存在感がありますが、メロンの種は色白で中身もしっかりしていない。おそらく私が元気な時に柿の種と言われていました。またメロンの種と言われても、その後に頑張りなさいとか、元気を出しなさいとかは、一度も言われませんでした。

これは寛次郎の二つの本質を表していると思います。一つは物事を何かに例える文学性や叙情性。もう一つは自由であること。寛次郎はものすごく自由を大切にした人です。自分の作品も受け手が自由に受け取っていいと。