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国内外で書のパフォーマンスを繰り広げる書家 吉川壽一さん(76)(2/2ページ)

2019年1月23日付 中外日報(ほっとインタビュー)

中国・北京のパフォーマンス(1990年)では大筆で「福中来」と揮毫
中国・北京のパフォーマンス(1990年)では大筆で「福中来」と揮毫

小さい頃から、いずれは書家を目指そうと思っていたのですか。

吉川いえ。川崎先生には小学5年生の頃まで習いましたが、両親がもっと野性的な人に就いた方が良いと考えて、近所におられた稲村雲洞先生に就いたんです。この人は熱血漢でした。小学校から帰ると「書け!」と言われたので書いた。見せても「何だ、こんなもの」と言われた。それで「こう書くんだ」と。稲村先生が書かれると、またこの字がうまかった。

小学生の頃は1日で400枚くらい書いていました。6年生の時に福井県の競書大会で知事賞をもらい、良い筆も持たせてもらった。

でもプロになるということとは違う。まだその道を行こうとはしなかった。中学校で大東文化大教授だった宇野雪村先生に就いたけれど二十三、四歳の時にけんかして、奎星会を創立された上田桑鳩先生に就いた。「日本経済新聞」の題字を書いた人です。

東京の上田先生の所に行くと、先生が石を持ってこられて「磨け」と言われた。それでサンドペーパーや布で磨いていると、午後3時頃になって、突然「弟子になれ」と言われました。「月謝は要らん。何でもよいから書いてこい」と。それで福井の仕事場に帰り、連日連夜書いて送りました。ところが半年たっても一枚も戻してもらえない。上京して、上田先生を訪ねると「全部捨てた」と言われた。絶句しましたが、先生が「見ておれ」と言われ、目の前で臨書された字に戦慄しました。24歳の頃です。

それから数年たったある時、天空から一本の線が降りてきて「ヤレ‼」と檄を受け、プロになったのが28歳ですね。

30年ほど前から、世界各地で書のパフォーマンスを続けておられますが。

吉川海外の大きな仕事は中国でのパフォーマンスが初めてでした(1990年)。北京で45メートル×15メートルの金色の布に、重さ65キロの大筆で「福中来」と書きました。

パリ(2004年)では大声援の中、エッフェル塔広場で15メートル×8メートルの白布に「愛・AMOUR」と書いた。ドバイ(2006年)では砂漠で24メートル×4メートルの大布などに文字を書き、ヘリコプターが赤砂を巻き上げて、その粒子を定着させた。これはコニカのコピー機と同じ原理ですよね。

海外のパフォーマンスは屋外での仕事が多く、天が助けてくれないとできないけれど、どこに行っても晴天になってくれます。

日本でも漫画週刊誌の題字や街中にある看板の社名などを書かれていますが。

吉川漫画週刊誌『モーニング』(講談社)の栗原良幸編集長にお会いした時、挨拶で「字を書いて生きています」と話したら、それで分かってくれて通じ合い、タイトルロゴなどを依頼してくれました。貧乏していたんですが、漫画の世界は(ギャラが)すごいですね。時々そういうことがないと、僕らは生きていけない。

NHKの大河ドラマ「武蔵」の題字は、新聞でこの大河ドラマが始まる記事を見た時、「題字はお前が書くべきだ」との天啓を強く受けました。その後、原作の吉川英治さんのご子息である英明さんにご縁があるなどして、題字の揮毫を依頼されました。タイトルを49回にわたって1年間、毎週毎週書いたわけですが、そんなことをするのは僕しかいない。でも、その苦労も良かったと思います。

お寺に対して、どんなイメージをお持ちですか。

吉川若い人たちの宗教離れといわれても、お寺は残るものだと思います。歴史を形作っている場所だから。ただ何か心を動かされるものがないといけないと思う。昔はドキッとするものがあったんですよ。本でも、経典でも。

それと昔の人たちは、自分の思いをホツホツとしゃべっていても、それを受け入れられるだけの時間的余裕があった。昔は、例えば弁士の徳川夢声にしても、俳優の宇野重吉にしても、ゆっくりしゃべって、ホッと出てきた言葉がすごかった。今は時間の“流れ”が雑になっていると言うか、早くなっている。人間が物事を考えるリズムに合っていないんじゃないか、とも思います。