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二人の川端と運命的出会い

日本画家 牧進氏

2012年2月2日付 中外日報(この道を往く)

まき・すすむ氏=昭和11年、東京都豊島区に生まれる。昭和27年、川端龍子に入門。昔ながらの画塾の徒弟制度を知る最後の一人。昭和32年、第29回青龍社展に初入選。以後、奨励賞3回、春季展賞4回受賞。昭和41年、龍子が逝去し、青龍社解散、無所属となる。昭和42年に初個展。以後個展を多数開催。昭和50年、第3回山種美術館賞展優秀賞。平成18年、「両洋の眼」展で河北倫明賞。
二人の川端と運命的出会い牧進氏

日本画家・牧進さんは、15歳で故川端龍子に内弟子として入門。師の厳格な指導のもと絵画の技術を磨いた。龍子が逝去した後は、無所属作家として現在まで個展を中心に作品を発表。四季の移ろいや日本人の心を大切に思い、自然の中にある美しい色彩や形が発するみずみずしい情緒を卓越した描写力で描いた装飾的で優美な作品は、鑑賞者を魅了している。

昭和46年、文豪・川端康成と運命的な出会いをしたことが後の牧さんの絵の方向を決定した。川端が牧さんの個展「春夏秋冬」の出品作、6曲1双の屏風絵を絶賛し、「牧進讃」を揮毫したのだ。「人間の一生は邂逅めぐりあひである」ではじまる個展の推薦文には「全画面の大観、画細部の微察、色と線の感覚、ことごとく作者と私と見所を同じうした」と記されている。

牧さんはこの個展の前後、川端康成と3回会っている。「日本の美しい四季、春夏秋冬を描き続けるように」と言われたことが脳裏に強烈に残ったという。「私は人の縁で生かされてきた。特に二人の川端という師との出会いによって」と語る牧さんの東京・小平の住まいを訪ね、現在の心境を聞いた。

(聞き手=大羽幹夫)

川端龍子との出会いは。

昭和26年、日本橋三越の青龍社展の会場でした。朝から晩まで会場の絵を見ていたら川端龍子先生が呼び止めて「そんなに絵が好きなら、私の家に遊びに来なさい」と。それで100枚の絵を担いで先生のお宅に持っていきました。先生は2、3枚見ただけで、これは絵ではないよと言われた。翌年、中学を卒業し、先生の書生になりました。当時、50年住み込んでいた先輩がいたので、"書生術"をその人からみっちり教わりました。

絵の指導は。

1年後に先輩が郷里に帰ったので、入れ替わって先生のお世話をすることになり、先生が亡くなるまでの15年間、住み込みました。先生から褒められたことも叱られたこともありません。私は花を描く人間ですが、外に出してくれなかったので、描けるのは庭の草花だけでした。焦っていたころ、先生が私を呼び庭の背の高いイチョウの木の上を指しました。朝日に照らされてイチョウの葉が輝いていました。それは自然をよく見て描きなさいという無言の教訓でした。

今の美術学校の教育とは違いますね。

先生は寡黙な人で、自分のペースを守り一日中、絵を描いていました。大作を描く時は墨をゆっくり大量に摺って精神を整えてから、何も見ずに描いていました。描くことは全て頭の中に入っているのです。5年目に初めて先生の主宰する青龍社展に出品を許されました。展覧会の前に絵を見てもらえるようになり、何も言われなければ、進めてもいいよというサインで、何かあれば指先でトントンとたたかれ、自分で考えて直しなさいということでした。そうしているうちに、絵の描き方が会得できるようになりました。

龍子亡き後、独立した。

先生から何年たっても使い切れないほどの財産をいただいたので、独立することを選びました。それから個展とグループ展に作品を発表しています。

龍子は会場芸術の達人でした。

先生は将来、絵画の発表の場は会場芸術になることを見据え、そのため絵画を制作した人でした。金銀箔の砂子手法や仏画の線描、水墨画に至るまで、東洋絵画の特質を全て独力でマスターしていました。

もう一人の川端、康成との出会いは。

昭和46年に日本橋三越の個展の準備をしている時、私の絵を見て「もしよければ讃を書くよ」と言ってくれました。午前中だけの約束で、鎌倉の自宅に招かれました。トラックに積んで出品する全ての絵を持参して見てもらいました。昼食、夕食を共にしてもなお話が尽きませんでした。

美術収集家として知られる康成の目に留まった。

川端康成先生は私の黒い鯉の絵を気に入り、「日本の美しい四季をテーマにした絵をやってください」と言われました。その鯉は師匠譲りで、真鯉を描くことがほとんどです。

四季の絵を描くことに対するこだわりは。

川端康成先生はこんなに四季の美しい国が効率優先の経済発展の影響で、自然が壊されることを危惧されていました。

川端康成との縁は短かった。

川端康成先生は翌年亡くなられたので、わずか4カ月余りのご縁でした。しかし、絵描きとして生きていく上で、先生から頂いた讃は生涯の励みになりました。

今でも毎年二人の川端の命日には墓参りを続けていらっしゃるとか。

言葉で尽くせぬ教訓を両師から賜っているので、当然のことです。昭和49年の第1回川端康成文学賞の創設以来、表彰状に添える作品を制作し、昭和63年の日本橋三越の川端康成没後15周年「川端文学花を描く」展まで、川端文学に関連する仕事を数多くしてきました。

平成10年には諸外国との友好親善と美術界の発展に寄与した功績により文部大臣から表彰され、平成15年には、東京・大田区の池上本門寺の壁画「煌櫻」を制作している。

池上本門寺では師匠の川端龍子が大堂天井画として奉納すべく「龍」を描いていましたが、未完のまま亡くなられた。その縁で壁画制作の依頼を受けました。

寺院関係の仕事では、平成18年に愛知県一宮市の臨済宗妙心寺派妙興報恩禅寺の襖絵「四季生生図」を制作しました。

無所属の画家でこれほど息長く活躍されている方は珍しいですね。ありがとうございました。