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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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3.壊れた教室跡で遺族ら黙祷

2015年3月13日付 中外日報(5度目の春へ-東日本大震災)

犠牲児童の供養に通う僧 仕事辞め不明の娘捜す母

大川小の前で今日も犠牲者の冥福を祈る福井住職(宮城県石巻市で)
大川小の前で今日も犠牲者の冥福を祈る福井住職(宮城県石巻市で)

津波で全児童の7割に当たる74人と教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小。その廃虚で4周年を迎えた11日、追悼法要が行われた。あの日と同じく小雪が舞い凍える寒さ。県内や全国から集まった曹洞宗青年会の僧侶60人と遺族ら200人近くは、初めて壊れた校舎内の教室跡に入り、午後2時46分に黙祷を捧げた。地元の浄土宗大忍寺の福井孝幸住職(48)も参列し、うつむいて押し黙る遺族の前で舎利禮文を唱えた。

震災追悼施設のようになった大川小には各地から多くの人が訪れる。壊れた校門跡にあった祭壇は整理され、山側の巨大な土台上に地蔵像など数々のモニュメントが移設された。正面の3基の黒御影石の慰霊碑には両側に地区で亡くなった人の氏名、中央に「風かおる北上川の 青い空ふるさとの空……」という校歌の歌詞と、犠牲児童の名前が刻まれている。

6年の兄堅登君と流され、今も行方不明の4年の鈴木巴那ちゃんの名も。その母実穂さんは、来る日も来る日も花を供え、年月を経てすっかり更地になった周囲の現場で我が子を捜す。

児童らは警報後に極寒の校庭に集められ、避難せずに50分近くも待機させられた揚げ句、津波にのまれた。「対応に疑問がある」。その訴えに対して生き残った教師の証言を拒み、関係書類を廃棄するなど学校と市教委の理不尽な対応で保護者たちは胸を引き裂かれる思いをした。昨年3月に19家族が県と市を提訴し、実穂さんも加わった。

「娘を捜すために17年間勤務していた仕事を辞めました。『お母さん、ここにいるの。捜して』と娘に言われているようで……。巴那を早く見つけてお化粧をしてあげたい。ピアノの発表会で着る予定だったドレスも着せてあげたい」。実穂さんは第1回弁論の意見陳述でそう話した。自ら命を絶つことさえ何度も考えたという。

「ご遺族の気持ちが痛いほど分かります」。震災以降ずっと現場に供養に通い詰める福井住職は、校門前でりんを鳴らして読経し念仏を唱える。当初の毎日から最近は月に3日程度になったが、「私の足が動く限り続けます」と言う。

学校で起きた事を檀家である遺族は話さず、住職も自分からは口に出さない。長女と次男を亡くした住職の同級生の男性は、「子供のためにもここでは涙は見せない」と言う。皆が悲しみを胸にしまい込んでいる。

だが、住職自身も長男も大川小の出身。地区では住民も37人が行方不明だ。友人の警察官は、学校跡から360度見渡せる範囲全てを捜索し尽くした。「坊さんだからというより、皆さんの気持ちを考えると……」と言葉に詰まった。

11日午前中、福井住職は被災から修復の終わった自坊の本堂で初めての「合同慰霊法要」を営んだ。今までは個別の法要だったのが、高さ50センチの大きめの位牌を新調し、「東日本大震災津波横死諸精霊」と記して児童や地区の人々全ての冥福を念じる。「生活も大変だし何人来られるか」と案じていたが、遠く東京からも含めて40人余りが集まった。全員で念仏を唱和し、住職は挨拶で「4年たっても、私も起きた事がいまだに信じられない」と胸の内を素直に述べた。

「あの体験を絶対に風化させたくない」。その思いで位牌には通常の元号だけでなく「2011年3月11日」と入れた。何百年が過ぎても分かるようにと檀家に説明すると、「こんな合同法要をぜひとも毎年してほしい」。そう懇願された。

皆が大勢で集まり心を一つにして供養したいと願っている、と住職は確信した。月日が過ぎる中で、何ができるか。このようにして節目ごとに法要をし、「人々に心を安らげてもらうしかない。それが僧侶としての務めです」と語る。

(北村敏泰)