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いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

死と向き合って 9(2/3ページ)

2012年2月2日付 中外日報

並んだ死者がまるでモノのように見えた。職員らも淡々と遺体配置のレイアウトを検討したりしている。だが、ふとわれに返り、「これって、仏さんなんじゃないか」との思いが込み上げた。感情を抑え込まなければ仕事にならない修羅場ではあったが、痛恨の思い出だった。

一方で、泣くことができる時もあった。震災から6日目の3月16日。津波に襲われた現場に初めて赴き、あの犠牲者たちがここで亡くなったのだと思うと、胸を切り裂かれるような悲しみに襲われた。

同じ日のこと、ずっと連絡が途絶えて「死んだ」とばかり思っていた地元閖上の親友が、安置所の体育館に身内を捜しに現れた。一瞬、幽霊かと思った。が、「生きてたあ!」。そう叫んで力いっぱい抱きつき、号泣した。

「泣きたいのに泣けずに、ずっと苦しかった。泣いていると、自分が安心しているのが感じられました」と振り返る。そして、腑に落ちた。

「これまで坊さんとして法事で『人は必ず死を迎える』って偉そうに口で説いてきたけど、何と軽い、ルーチンの言葉だったか。『死』ということが何も分かっていなかったんです」

説教してきた内容が間違いだったのでは決してないが、「無常」という教えと、現実の人間の生命のはかなさが、そして生きていることの意味が、初めて心の深いところで重なるのを、しかと実感した。

「されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。既に無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ……」。真宗の葬儀や法事で読まれる蓮如の「白骨の御文」だ。

「でも、そんなことを言いながら気持のどこかで朝も夕も、明日もあさってもある、と思って生きてきたんですね。それが今、無常が身に染み付きました」と言う。